岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第36回)「御前に立つとき」Before the Throne of God Above ~シンシナティ日本語教会主催
4:14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
日本聖書協会『口語訳聖書』ヘブル人への手紙 4章14-16節
■ まえおき
今週の主日礼拝では、ヨブ記2章の御言葉から、「何ものも神の愛から私たちを引き離せない」こと、試練誘惑が私たちの敵サタンからであろうとも全て神の摂理のうちあること、そしてサタンのやり口・常套手段について解き明かしました。
そして、サタンのやり口は、自他ともに神様から見捨てられたと思わざるを得ないような狡猾さ故、私たちの知恵や力に頼らず「神の武具」に拠ってこそ、地上に於ける私たちの霊的戦いに勝利できることを御言葉に聞きました。
https://www.jesusgivesyourest.com/message/detail.php?id=323
今日は、その霊的戦いに勝利をもたらす神の御業を誉め讃える讃美歌、“Before the Throne of God Above”「御前に立つとき」を取り上げます。
この讃美歌ですが、36回を数える讃美の力集会で取り上げたことが無い異色の名曲です。と言うのは、
・八行×三節 (原作では四行×六節)の歌詞全体が、
・プロテスタント教会が大切にする信仰告白の証拠聖句の引用
なのです。ですから、賛美を通して自然と神の言葉が人々の心に届き、試錬の時には救い主イエス・キリストの思い遣りと父の愛を思い出させ、私たちは全き平安に憩い新たな力に満たされるのです。
■ 1.選曲の経緯
まず、この讃美歌を取り上げた経緯からお話しします。
8月の集会時に 「10月の選曲は早めに」とお願いしたところ、翌日Y.M姉からメールで届いたリクエストがこの曲でした。歌っている内容は「信仰者が『天上の神の御座の前で』自分を執り成して下さるイエス・キリストに見出す全き平安」ですが、実は私、恥ずかしながらその時は「地味な曲だなあ」としか感じなかったのです。
その数日後、M.M姉がメールで紹介して下さったWeb上の資料を見てハッと気づきました。歌詞のほとんどが聖句の引用なんです。そこで、「これは単純な引用じゃないぞ…もしかすると…」と、私のデータベースで調べたところ予想は的中。8行/節×3節=24行が、ウエストミンスター信仰基準やハイデルベルク信仰問答と言った、正統的プロテスタント教会が大切にしている信仰告白(教理)の証拠聖句の引用なんです。そのことを【資料3】に纏めました。
つまり、この讃美歌は、
・神はどのようなお方か
・聖徒の堅忍、救いの確実性の根拠は何か
・恵みと救いの確信、確信の動揺、中断、回復について
と言った教理の証拠聖句の数々を歌詞に組み立てて福音の真髄を歌い、信じる者を最後まで離さないキリストの愛を讃美しする信仰告白なのです。この讃美歌を手引きにした教理の学びも可能です。
この事に気付いた私は、雷に打たれた様な感動に襲われました。今日は、いくら主に感謝しても足りない思いで解説させていただいています。
■ 2.この讃美歌がたどった道
作詩者チャリティ・リース・バンクロフト(チャリティ・リース・スミスと記されることもあり)(1841年6月21日~1923年6月20日)は、アイルランド教会の牧師の家庭に生まれました。
そのアイルランド教会は、アイルランド島内でローマカトリックに次ぐ規模の教会で、宗教改革以前の政治体制や伝統を継承しますが、ローマの権威を否定し、宗教改革により回復された福音を告白するプロテスタント教会です。ウェストミンスター信仰告白(1647年)は、アイルランド信仰箇条(1615)を参考にしている程です。
この様な教会で育ったチャリティですから、しっかりした教理の学びを通して、神のご計画と福音の全体像を把握していたことでしょう。だからこそ様々な教えの嵐・試練の嵐の中でも、この讃美歌が誕生したのでしょう。
今日の讃美歌ですが、チャリティが22歳の時(1863年)、ロンドンで『The Praise of Jesus』に、4行6節(今日は八行×三節)で構成された『ヴェールの中(ヘブル6:19では〈幕の内側〉)でイエスとともに』が歌詞のみで収録されました。
その四年後(1867年)、チャリティは自身の詩集にこの讃美歌を、『ヴェールの中で、ヘブル6章19、20節』と見出しを付けて収録してその序文に祝祷を寄せていますが、これは後ほどご紹介します。
また、あの有名なC.H.スポルジョンは、自身が編纂した讃美歌集 『 Our Own Hymn-Book』 に、チャリティの詩に「イエスは私のために嘆願する」の見出しを付け、4行6節の歌詞のみで収録しています(1866年、)。
※C.H.スポルジョン:(1834年6月19日 - 1892年1月31日、「講壇のプリンス」と称せられ歴史に名を残す説教家。私たちに身近なところでは、『朝ごとに・夕ごとに』 『ダビデの宝庫』があります。彼はカルヴァンやピューリタンたちの著書による独学の神学者で、晩年バプテスト派から離脱しました。
それから25年後、スポルジョンがこの世を去る僅か一ヶ月前に、最後の礼拝説教(1891年12月31日、1892年1月1日)で、チャリティの歌詞第三節を引用しています。
_†_ スポルジョン最後の礼拝説教 _†_
私は40年以上も十字架のキリストを宣べ伝え、多くの人を主の足元に導いてきましたが、今この瞬間、私の主イエスが罪深い人々の為にして下さったこと以外に、希望の光はありません。
そこに彼を見よ!血を流す小羊!
私の完全で汚れのない義、
偉大で不変の「私はある」、
栄光と恵みの王。
_†_†_†_
このことからも、チャリティの詩がスポルジョンに大きな影響を与えていたことが伺えます。
ところで、19世紀後半からチャリティの詩の人気は下火になったようです。
この歌詞に相応しいメロディーが存在せず、他の曲に合わせて歌われていたことが原因の一つでしょう。私が調べた限りでは、讃美歌286番「神はわが力」(DUKE STREET)、讃美歌310番「静けき祈りの」(Sweet Hour of Prayer)、ヒューバート・パリーの「エルサレムへ(JERUSALEM)」等があり、この状態は、後ほど紹介する [ヴィッキーによる作曲(1997年)] までの凡そ130年間も続いたのです。
しかし、私はもう一つ理由があったと考えます。それは、19世紀半ばに姿を現わし20世紀前半に最高潮に達した自由主義神学の影響です。「聖書の解釈は人の自由だ、聖書教理なんぞクソくらえ!」といった神学の影響下では、教理的なチャリティの歌詞は見向きもされず、この詩からインスピレーションを受ける作曲者も現れなかったのでしょう。
※自由主義神学 : https://seishonyumon.com/movie/6828/ (運営団体:ハーベスト・タイム)
ところが、ついに20世紀も末の1997年、自由主義神学の闇の中で眠らされていたかの如きチャリティの歌詞が目覚め、自分固有のメロディーで歌い出す時が到来しました。ディズニー映画(1959年)等で広く知られるヨーロッパの古い童話「眠れる森の美女」で、茨に閉ざされた危険な城に分け入った王子の口づけで主人公オーロラ姫が100年の深い眠りから目を覚まし、同時に城中に歓声が沸き起こった如くです。
その作曲者は、ソブリン・グレイス教会員のヴィッキー クック(Vikki Cook, 1960-)です。彼女は作曲経緯をこう語っています。
_†_ ヴィッキーが語った作曲経緯 _†_
オリジナルの歌詞は私に大きな衝撃を与えました。今までこの賛美歌を聞いたことなどなかったなんて信じられませんでした。私は歌詞のコピーを家に持ち帰り、聖書に挟みました。静かな時間には歌詞を取り出して、特に第二節の「サタンが私を誘惑して絶望させ、私の心の罪悪感を告げるとき、私は上を見上げて、そこに私のすべての罪を終わらせた神を見る」に心を動かされました。私はその歌詞を思いながら、神とともに何度も朝を過ごしました。たとえ自分のためだけだとしても、私はこれらの言葉を神に歌う方法を見つけなければなりませんでした。...
_†_†_†_
1997年、ヴィッキーによる初録音後、多くの歌手がこの曲をカバーしたことでさらに有名になり、
2004年には、賛美グループSelah(セラ、〈ヘ〉selah)によりアルバム「Hiding Place」がCD化されました。
※ https://youtu.be/0ZDzcMNJ-vY?si=nf8aVLqgD8WV8-7i
※ Selah(セラ):詩篇中に71回記されるこのヘブル語は、多くの研究にもかかわらず確証されていませんが、間奏の指示との説と、伴奏旋律の変化または音楽的休止による祝祷の指示との二説があります。
そして、このCDを入手されたY.M姉が、今日の讃美歌の選曲経緯(全文は集会録画ビデオをご覧下さい)を通してお証下さった如く、主は、聖書すら読めぬほど疲労困憊したY.M姉にそっと寄り添って下さり、この讃美歌を通して御言葉の力に与らせ試錬に勝利させて下さりました。
作詩者チャリティは、Y.M姉の試錬より139年も前に、彼女の詩集『ヴェールの中で、その他の聖なる詩』の序文で、こう祝祷していました。
_†_ チャリティの祝祷 _†_
これらの聖句が人々の心に響き、特に試練の時に救い主の同情と父の愛を思い出させ、助けとなりますように。これらの聖句が、優しさだけでなく知恵をもって、送られた懲らしめを謙虚に忍耐強く受け止める助けとなりますように。私たちはまだ「安息と相続財産」に到達していません。しかし神よ、感謝します、私たちはすぐに両方を享受するからです。
_†_†_†_
この祝祷に主イエスは応え、ご自身が永久に変わること無く生きて働く神であることを顕して下さりました。
■ むすび
最後に、
~♫ (第一節)
天の神の御座の前で、
私は力強く完璧なとりなしを受けます。
「愛」という名の偉大な大祭司がおられます。
彼はいつも生きていて私を弁護してくださいます
~♫
主イエスが、父なる神にこの私を力強くとりなして下さるということは、
主イエスは、私を熟知し信頼し愛しておられるからこそ出来ることです。
主イエスは、私にとこしえに真実であられます。
アーメン