岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第32回) 「幸い薄く見ゆる日に」/「驚くほどの主の愛」 He Looked Beyond My Fault ~シンシナティ日本語教会主催
【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。/主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。/主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
(詩篇23編1-3節 新改訳2017)日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 23編1-3節
■ はじめに
讃美歌「He Looked Beyond My Fault」は、「ダニー・ボーイ」としても広く知られる旋律「ロンドンデリーの歌」 (Londonderry Air)に、20世紀の代表的ゴスペルシンガーソングライターの一人、ドッティ・ランボー(1934-2008)による歌詞を載せ、2001年に出版されました。
私たちは時に、人の言葉や慰めが何の力にもならないくらい弱り果てることがあります。しかしそのような時も、神様からの慰め、新しい力と希望を与えてくれる讃美歌があります。その一つが今日取り上げる讃美歌です。
ドッティの歌詞は彼女自身の信仰体験に基づいていると言われ、そこでは、
・人間の弱さや罪を越えた、私たちの根本的・究極的必要を知り、それを与えて下さる神の愛
・その神の計り知れない恵みに対する畏敬の念と感謝
これらが純朴かつ普遍的な表現で歌われています。このことが様々な人生経験や信仰の歩みを持つ人々の共感を呼んでいます。 (以下、この讃美歌「He Looked Beyond My Fault」を「ドッティの歌」と呼びます。)
■ 1.主過ち責めることもなく、ほんとうの必要を
~[He Looked Beyond My Fault]・[ひむなる58番]前半
_♫~
Amazing grace shall always be my song of praise,
for it was grace that brought my liberty;
I do not know just why He came to love me so,
He looked beyond my fault and saw my need.
わたしに自由を与た 驚くほどの恵み
過ち 責めることもなく ほんとうの必要を知る
~♫
この歌詞は、福音書に記された主イエスの御姿を思い起こさせます。例えば、
_†_ マタイ9:2 (中風の人の癒やし)
9:2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
_†_†_†_
_†_ ヨハネ8:10-11 (姦淫の場で捕らえられた女性の赦し)
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕
_†_†_†_
相手をひと言も責めず、ただその人の信仰に応えて無条件に罪を赦し、滅びから解放した主イエスを、
♫~ わたしに自由を与た 驚くほどの恵み 過ち 責めることもなく ~♫
と、この讃美歌は歌っているのです。
その他、盲人、ライ病人、罪の女、墓場の男、ザアカイなど枚挙に暇がないですが、極めつけをもう一つ。
_†_ ルカ23:42-43 _†_ (十字架上で隣の罪人を赦す)
23:42 (十字架にかけられていた犯罪人の一人が) そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
_†_†_†_
主イエスは、その人に信仰を認めると、相手をひと言も責めず無条件に罪を赦し、滅びから解放されました。
ただ、ご自身の贖いの十字架と引き換えに。
主イエスは贖いを成し遂げられたとき、
_†_ ヨハネ19:30 _†_ (十字架上最後の言葉)
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。
_†_†_†_
「(贖いを)完了した」、あなたに自由を与た、と罪の支配からの解放宣言をされました。
□ 「ほんとうの必要」
ところで、「ほんとうの必要」とは何でしょう。
私たちには“日用の糧”の他にもいろんな必要があります。試錬や試みに会う時はなおさらです。
ですが、主イエスは「ほんとうの必要」に気付かせて下さいます。
_†_ ルカ 9:25 _†_
9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
_†_†_†_
「ほんとうの必要」とは、自分のいのちです。
罪の赦し、罪と死の支配からの解放と自由こそ究極の必要です。その為に主イエスは、私たちの身代わりに十字架をも甘んじて下さったのです。
この讃美歌は、自分が主イエスに無条件に罪を赦され「ほんとうの必要」を与えられたことを知る人々の讃美です。作詞者ドッティも、今日ここにいる私たちもそうです!
■ 2.十字架のイェスを 見上げて
~[He Looked Beyond My Fault]・[ひむなる58番]後半
_♫~
I shall forever lift mine eyes to Calvary,
to view the cross where Jesus died for me,
カルバリの十字架のイェスを 見上げて さんびしよう
~♫
□ 十字架のイェスを見上げて
次第に高揚していくメロディーに載せて、「カルバリの十字架のイェスを見上げて」、「lift mine eyes to Calvary」と歌われます。
うなだれていた頭(こうべ)をもたげて十字架を仰ぎ、下ばかり見ていた目と心を主イエス向けているのです。
それは、
_♫~
how marvelous the grace that caught my falling soul;
滅びる魂 とらえた 驚くほどの主の愛を
~♫
私に現実となった驚くほどの主の愛を誉め讃える為です。
英語原歌詞は、平明であっても選りすぐりの言葉を用いていることは驚きです。
「 caught / catch」は、ただ捕まえるではなく、「意識的につかまえる」です
「falling」は、「支えが無いまま放っておいたら自然にどこまでも不可抗力的に落ちていく状態」
「soul」 滅びる肉体に対し 死後も不滅の魂
この様に、言葉を選りすぐって「驚くべき神の恵みが、私の滅びへと落ちていた魂をとらえてくれた」と証ししています。
この様に、ドッティの歌詞は、主イエスがもたらしてくれた福音を、これ以上無いほどシンプルに、かつ力強く歌っており、ひむなるは、英語と日本語の壁を克服した名訳だと思います。
□ [ひむなる]で一つ残念なこと
それは、「fault」を「過ち」と訳していることです。
日本語訳聖書は英語訳聖書で「fault」と訳された箇所を、文脈に応じて、過ち/欠け/罪などと訳し分けていますが、十字架と関連するときは例外無く「罪」です。
ところが[ひむなる]は、「カルバリの十字架のイェスを見上げて さんびしよう」の直前で「過ち 責めることもなく」と訳してます。ここは聖書が言う「罪」と訳すべきでしょう。
ドッティは、自分の「fault」、罪を神の御前に差し出し、罪を悔い改めて謙っているのです。
不特定多数が目にし耳にする可能性がある言葉には配慮が必要です。しかし、人間の根源的問題を指し示す「罪」と言う言葉を、人を意識し“不快語”の如く処理して「過ち」と言い換えぼやかすなら、十字架に掛かられたイエス様はなんと言われるでしょうか。
讃美歌も御言葉と同様「塩気を失った塩」になってはなりません。
□ Y.M姉から聞いた話
「faultといえばアメリカで賞をとった作家である元牧師が、若い頃病院付きの牧師であった経験の実話に基づく小説で『The fault in our stars』 があります。
末期癌を宣告され死にゆく二人のティーンの話で、最後の章は語り手が亡くなった後語られるという話です。私も読みましたが素晴らしい名作です。
ところが、子供であろうとなんであろうと、しかも目に見えて悪いことをしていない子も含めて私たちは罪人、というのが「残酷」ということで中高の図書館から最近発禁処分になったそうです。」
この本は、日本語訳もAMAZON(US/日本)で購入可能です。
□AMAZON US 「The Fault in Our Stars」 by John Green
【映画「きっと、星のせいじゃない」原作本】 2015年2月20日より映画公開(タイトル「きっと、星のせいじゃない」 配給:20世紀フォックス映画)
□「さよならを待つふたりのために」 ジョン・グリーン (著)、金原瑞人・竹内茜 (訳)、岩波書店
■ 結び
最後にもう一つ、新聖歌330番 「幸い薄く見ゆる日に」に触れます。
この聖歌は、ドッティや[ひむなる]と同じ2001年の出版ですが、
一節前半では「幸い薄く見ゆる日に 孤独に悩む時に」、
二節前半では「愛する者を失いて 望みの消ゆる時に」
ドッティや[ひむなる]が普遍的歌詞なのとは対照的に、個別的特別的な歌詞です。
おそらくこの歌詞の背景には、作詞者(奥山正夫氏)自身あるいは身近な人が、「幸い薄く見ゆる」ところから立ち上がらせていただいた素晴らしい信仰体験の証があると思われます。
それだけにこの讃美歌は、同様の体験をする人々の心を稲妻の如く貫き、消えかかった灯を明々と燃え上がらせる力があります。しかし、「笑みをたたえて」の歌詞は誤解や反発を受けるかも知れません。
と言いますのは、現実の信仰生活で、「幸い薄く見ゆる」「望みの消ゆる」程の状態で主の御声を聞いも、実際に一節後半や二節後半で歌われる状態に迄立ち上がるには、通常かなりの霊的葛藤と訓練(試錬)の期間を経るからです。
この事は、旧約聖書の詩篇記者たちが霊的葛藤と祈りと叫びを繰り返し、新約聖書の書簡も忍耐が必ず報われることを奨励している通りです。イエス・キリストへの信仰に生きることは、「お湯を注いで数分待てば、チンすれば、美味しく食べられるファストフード」の様にはいきません。
私が申し上げたいことは、「この讃美歌を歌う時、『幸い薄く』と悩み弱っている人には、御言葉の説教や良き信仰の友や導き手による祈りや支え、励ましや交わりが必要なことを覚えて頂きたい」と言うことです。
もし、それらが無くて、「自分も『笑みをたたえて…』となろう! そうなりたい、頑張ろう!」と孤軍奮闘するなら、やがて「自分に出来るだろうか…」と気になりだし、周囲の人と比較して「自分はダメなのか?」と希望が次第に色褪せ重荷に変わり疲れ果てて倒れます。これは私ばかりか少なからぬ人々が舐めた苦い経験です。
きょう、私たちは、
_♫~
わたしに自由を与た 驚くほどの恵み
過ち 責めることもなく ほんとうの必要を知る
~♫
と歌いました。驚くほどの主の恵みが与えてくれた自由について聖書はこう記します。
_†_ ガラテヤ5:13 _†_
5:13 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。
_†_†_†_
私たちは普段、主と自分との関係の中で讃美することが殆どでしょう。でも時には、「驚くばかりの主の恵み」を必要としている友や家族がいる場で讃美することもあるでしょう。その時こそ、求道中や信仰が未だ弱い方々に「互いに愛し仕え合う」機会となり、やがて一緒に主を誉め讃える時を迎えたいと心から願うものです。
以上です