岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第34回)「慕いまつる主なるイエスよ」 Precious Lord Take my Hand ~シンシナティ日本語教会主催
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
(イザヤ41章10節 新改訳2017)日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書 41章10節
■ はじめに
資料1「略解」でご紹介しましたが、奴隷制を引きずる人種差別と貧困の中、巡回牧師の家庭に生まれ、青年時代は禁酒法と大恐慌が暗い影を落とし暗黒街の帝王が支配したシカゴで、良心の疼きと恥辱を忍びジャズピアノを演奏して生計を立てたドーシー。信仰を堅持し、ささやかな幸せを掴んだのもつかの間、伝道ツアーで留守中に、出産で妻子を失うという悲哀と失意のどん底から生み出されたのがこの讃美歌です。
ドーシーはその経緯を回想してこう語っています。
~
私は妻と私たちの小さな男の子を同じ棺に一緒に埋葬しました。そして、私は崩壊しました。何日も私は心を閉ざしました。私は神が私に不当な扱いをしたと感じました。私はもう神に仕えることも、ゴスペルソングを書くこともしたくありませんでした。私はただ、かつてよく知っていたあのジャズの世界に戻りたかったのです...。しかし、「主よ!」と、この深い悲しみと試練の意味を問うた時、たまたま慰めに来ていた友人が「こんな時だからこそ、あえて『慕いまつる主よ』と呼ぶんだ」と励ましてくれました。
~
この友人の励ましは、ドーシーを救いに至る悔い改めへと導いたのです!
_†_ ⓪ Ⅱコリント7:10 _†_
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
_†_†_†_
とある通りです。この讃美歌により、ドーシー自身が救われたばかりか、失望と悲しみの淵で苦悩する人々は慰め励まされ、また救いへと導かれました。
■ 第 1 節 「手」
~♫ (第一節1-2行目)
Precious Lord, take my hand,
Lead me on, let me stand
「慕いまつる主よ、手を取り、導いて、立たせて下さい」
~♬
こう記し始めたその時、ドーシーは、主イエスとの親しい交わりへと招き入れられたに違いありません。
主イエスよ、水に沈みかけたペテロが「主よ、助けてください」と叫んだ時、あなたは「手」をさし出して彼を救い出されました。(マタ14:31)
あなたが「手」を取ったとき、ぺテロのしゅうとめの熱病は去り(マタイ8:15)、
会堂司の娘はよみがえり(マタイ9:25、マルコ5:23、43)、盲人の目は見えるようになり(マルコ8:23)、
汚れた霊につかれた子はいやされた(マルコ9:27)ではありませんか。
_†_ ① 詩篇123:1 -2 _†_
あなたに向かって私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。
まことに しもべたちの目が主人の手に向けられ 仕える女の目が女主人の手に向けられるように 私たちの目は私たちの神【主】に向けられています。 主が私たちをあわれんでくださるまで。
_†_†_†_
そのドーシーに主は、
_†_ ② イザヤ41:10、13 _†_
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
わたしがあなたの神、【主】であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。
_†_†_†_
それでもドーシーは、きっと福音書の出来事を思い起こし、主に訴えたことでしょう。
_†_ ③ マルコ4:35-38 _†_
さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
_†_†_†_
主よ、弟子たちがあなたのお言葉に従って船出した如く、私もあなたの召しに従って福音伝道に仕えてまいりました。しかし、その私を嵐が襲いました。留守宅で、お産の最中に妻が死に、生まれたばかりの子どもも亡くなりました。
~♫ (第一節3-5行目)
I am tired, I am weak, I am worn
Through the storm, through the night,
Lead me on to the light
「私は疲れました。私は弱く、私はすり切れてます」
「嵐の中、夜の中、光へと導いてください」
~♬
この時、主はドーシーに語ってくださったことでしょう。
_†_ ③ マルコ4:39-40 _†_
イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
_†_†_†_
「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」とのお言葉に、ドーシーは悔い改めて主イエスへの信仰を告白します、リフレイン部分です。
■ リフレイン 「家」
~♫ 〈refrain〉
Take my hand precious Lord, lead me home
「私の手を取って、慕いまつる主よ、家に導いてください。」
~♬
この讃美歌は、白人による讃美歌とは異なり、黒人霊歌と相通じるテーマを持っています。
それは、エジプトの地で奴隷として暮らしていた神の民に、自由なき境遇にある自分達を重ね合わせ、
「私はこの世にあっては徹底的に非力です。その私の手を、主よ、あなたが携えて、嵐の中を「家」へと導き入れてください」
自分は非力で無力なこと。主が手を携え導いて下さらなければ自分は立ち行かないこと。自分が心底望むのは「家」だと言うこと。この信仰告白に、ゴスペルを愛唱する方々が気付いていただきたいものです。
その憧れの「家」の家について、聖書はこう言っています。
_†_ ④ ヨハネ14:23 _†_
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
_†_ ⑤ Ⅱペテロ3:13 _†_
しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
_†_†_†_
黒人霊歌やゴスペルが歌う「家」とは、「父と子なる神が自分と共に住み」「義の宿る新しい天と新しい地」です。ここを望み見て神を誉め讃えます。
■ 第 2 節 「その時はいつも」
~♫ (第二節1-2行目)
When my way grows drear,
Precious Lord linger near
「道がわびしくなるときはいつも、大切な主よ、近くにいてください」
~♬
_†_ ⑥ 詩篇23:4 _†_
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。…
_†_†_†_
~♫ (第二節3行目)
When my life is almost gone
「私のいのちが風前のともしびとなるときはいつも」
~♬
_†_ ⑦ マタイ12:20 _†_
(イエスは)傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。
_†_†_†_
~♫ (第二節4-5行目)
Hear my cry, hear my call,
Hold my hand lest I fall
「泣き叫ぶ声を、呼びかけを聞いてください、手をつかんでください。私が倒れないように。」
~♬
_†_ ⑧ 詩篇94:18 _†_
「私の足はよろけています」と私が言ったなら【主】よあなたの恵みで私を支えてください。
_†_†_†_
■ 第 3 節 「川」
~♫ (第三節1-5行目)
When the darkness appears,
And the night draws near,
And the day is past and gone
At the river I stand,
Guide my feet, hold my hand
Take my hand precious Lord, lead me home
「闇があらわれて、夜がしのびより、昼が過ぎ去ったら」
「川辺に立つ、私の足を導き、私の手を握ってください」
~♬
・嵐の中 (1 節)、長い道のりの旅 (2 節)を終え、今まさに約束の地「家」に入ろうとして「川辺」に立つ「私」と、
・奴隷の地から導き出され40年もの荒野の旅路を経てヨルダンの川辺に立った神の民(ヨシュア3:14-17)
とが重ねられています。
代表的な黒人霊歌「Deep River(深い川)」で、
“Deep River, Lord, My home is over Jordan”
「ディープ・リバー、主よ、私の家はヨルダンの向こうに」
と歌うのと同様です。
(※歌詞は1800年代後半誕生し、メロディーは1917年頃の編曲と言われます)
_†_ ⑨ ヨシュア記3:14-17 _†_
民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。
箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。
【主】の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。
_†_†_†_
神の民は、ヨルダンの川辺に立った時「どこの川岸にも水があふれていた」(3:35)ので緊張したでしょうが、神の民は神の栄光の臨在の内に、「乾いたところを渡り」(3:17)ました。足元が悪く手を携え合っていたことでしょう。それと同様に、
~♫ (リフレイン)
Take my hand precious Lord, lead me home
「私の手を取って、大切な主よ、家に導いてください。」
~♬
と歌っています!
■結び
最後に、手短に二つのことをお話しします。
(1)まず、この曲は、キング牧師、マヘリア・ジャクソン、そしてドーシーの葬儀等で歌われたことです。彼らを主の御元に送る上でこの曲以上に相応しい讃美歌はなかったでしょう。
それは、これが彼らの愛唱讃美歌だっただけでなく、この讃美歌と聖書が彼らの生き様を証しているからです。
_†_ ⑩ ヘブル11:13-16 _†_
これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
_†_†_†_
(2)そして、二つ目は、 私たちの手をhold、take して下さるお方の「手」には釘の跡が残っていることです。
主はご自身についてこう言われました。
_†_ ⑪ ヨハネ10:11 _†_
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
_†_†_†_
この言葉通り、私たちを死と滅びから贖い出すために十字架上に掛かられた主イエスの手が私たちの手をhold、take して下さるのです。
主イエス復活の知らせを聞いたトマスは、最初「くぎ跡のついた手を見、わき腹に自分の手を入れなければ信じない」と言っていましたが、復活したイエスが手とわき腹を弟子たちに示された時、トマスは試そうとはせず、「私の主、私の神よ」と信仰を告目しました。(ヨハネ20:28)
~
主は私を導いてくださいましたし、皆さんも導いてくださいます。そして、もし皆さんが「尊き主よ、私の手を握ってください」を歌ったことがないなら、信仰に立ち思いを込めて歌ってほしいと思います。
~
この讃美歌にドーシーが託した願いと福音を思い返し、私たちも救い主イエス・キリストを、福音を、心から喜び主を共に賛美しましょう。
_†_ ⑫ヨハネ10:28-29 _†_
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
_†_†_†_