何ものも神の愛から私たちを引き離せない
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。
2:1 ある日、神の子らがやって来て、【主】の前に立った。サタンも彼らの中にやって来て、【主】の前に立った。
2:2 【主】はサタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
2:3 【主】はサタンに言われた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を呑み尽くそうとしたが。」
2:4 サタンは【主】に答えた。「皮の代わりは、皮をもってします。自分のいのちの代わりには、人は財産すべてを与えるものです。
2:5 しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
2:6 【主】はサタンに言われた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブを足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取り、それでからだを引っかいた。彼は灰の中に座っていた。
2:9 すると、妻が彼に言った。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」
2:10 しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。
日本聖書協会『口語訳聖書』ヨブ記 1章21節~2章10節
ヨブ記については、これまでに皆様何度か聞かれたことがあるかと思いますが、主の言葉は不思議なもので、語られるその都度生きて働く力ある神の言葉として私たちに臨みます。主は今日も、新たな力と喜びを私たちにお与えくださります。
さて、「なぜ、正しい人、良い人が苦しみに遭い、悪人が繁栄して幸福でいるのか。神がおられるならなぜか」との問いは、私たちをしばしば悩ます難問です。また未信者の方々が信じようとしない事の言い訳にもなります。
この難問に、ただ観念的な論議ではなく、身をもって取り組まさせられたのが、ヨブ記の主人公ヨブです。
今日は、神様の摂理と、私たちの敵サタンのやり口とを知ることを通して、「何ものも神の愛から私たちを引き離せない」との確信と勇気を与えられたいと願っています。
■ 本論1 信仰者ゆえの試錬
ヨブ記1章には、ヨブの財産と子どもたちが、突然奪い去られた試錬が記されています。このヨブの苦難は敵サタンの画策によるものでしたが、神の摂理(*1)の下にあり、サタンはヨブの身体に触れることは出来ませんでした(1:12)。
*1 ~
「摂理」とは、キリスト教で創造主である神による、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって全被造物をそれぞれの目標に導かれます。
~
一度目の試錬でヨブは、
_†_ ヨブ記1:21-22 _†_
1:21 …言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。
_†_†_†_
ヨブは第一の試錬に勝ちましたが、再び「天上の会議」の場面になります。
_†_ ヨブ記2:1-3 _†_
2:1 ある日、神の子らがやって来て、【主】の前に立った。サタンも彼らの中にやって来て、【主】の前に立った。
2:2 【主】はサタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは【主】に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
2:3 【主】はサタンに言われた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を呑み尽くそうとしたが。」
_†_†_†_
この時、主はヨブを喜ばれ、その誇りをサタンに示されました。ただ、主は、ヨブが完全無欠だとは言っておられません。
また、2:1-3は一度目の試み、ヨブ1:6-8の繰り返しですが、一つ違いがあります。サタンについて 〈主の前に立った〉 という言葉が加えられています。二度目の試みは、神との対決姿勢がありありと表現されているのです。
思い出してください。主イエスが荒野でサタンの試みに勝利された後も、サタンは執拗にイエス様をつけ狙い、そしてついに十字架に掛けることに成功しました。もちろん私たちは知っています、主の十字架は神の摂理下にあって私たちを罪と死の支配から贖い出すための御業であったこと、そして主イエスの復活によりサタンの敗北は決定的となり、終わりの日に完全に滅ぼされることを。
それにも関わらずサタンは終わりの日まで繰り返し私たち信仰者を試み続けます。しかし、それすら主の御支配の下にありますから、「何ものも神の愛から私たちを引き離せ」ません。
ですから私たちは、試錬や誘惑をいたずらに怖がることはありません。しかし、大昔の神話だと軽んじること無く、4節以下で神様が教えてくださるサタンのやり口・常套手段を心に留めて、いざという時に備えるのです。
_†_ ヨブ記2:4-5 _†_
2:4 サタンは【主】に答えた。「皮の代わりは、皮をもってします。自分のいのちの代わりには、人は財産すべてを与えるものです。
2:5 しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
_†_†_†_
ここで、サタンの言い草に注目しましょう。
「皮の代わりは、皮をもってします」は、当時の物々交換の取引を表す言い方で、「信仰も商売の様なもの、損得勘定、儲かるかどうかの計算ずくだ」とサタンは言ってます。
四節後半の言い方はさらに露骨で、「自分のいのちの代わりには、人は財産すべてを与える」とサタンは言い放ったのです。「ヨブは自分のいのちと健康を最重要に考えて、信仰によって神に守ってもらおうとしている、ご利益信仰に過ぎないのだ」と。
「神への礼拝と奉仕は、神からの祝福と幸福と引き換えに行なわれているに過ぎない。」
「人間の信仰心などというものは、しょせん功利主義が皮をかぶっただけのもので、 ご利益あってこその神様、というのが人間の真相だ」
「彼が神に忠実に仕えているのは、ただ自分の利益のため、ご利益信仰に過ぎない」
とサタンは痛烈に告発したのです。
この言葉は、この世の諸宗教の本質を見事に言い当ててます。それだけに、私たちキリスト者にこの言葉が投げかけられると動揺を覚えるのは無理からぬことです。
しかし私たちは、こんなサタンの言葉に耳を貸すよりも、聖書全体を要約して信仰の根本を教えてくださる主イエスの言葉に聴くべきです。
_†_ マタイ22:37-40 _†_
22:37 …「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
_†_†_†_
この主イエスの言葉を真っ向から否定してサタンは、「神を愛するとか、『誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている』(1:8、2:3)と言ったって、所詮損得勘定で動いているのだ」と挑みかかっています。
この様な事は、歴史上の茶飯事です。特に有名なのは、ドイツ・プロイセン王国出身の有名な思想家ニーチェ(1844~1900年)の主張で、主イエスの言葉に真っ向から立ち向かい、ヨブ記2:4-5のサタンとそっくりです。
「隣人愛、親切、柔和などのキリスト者の性質(特質)は、そうでもしなければ耐えられない状況に置かれた、惨めな負け犬のクリスチャンを慰めるために、意図的に考え出された『奴隷の道徳である』、『クリスチャンは、これらの品徳を言い表わし、実行することによって、実際に自分より優れている者より、自分の方が優れていると、優越感を持つのだ』、すなわち『自分の利益のためだ』。」
このニーチェの主張は実に際どいところを鋭く突いています。かつてサタン(蛇)はエバの心に、まず猜疑心を投げ込み疑念を掻き立てて(①創世記3:1-5)ついに神に背を向け罪を犯させたやり口を思い出しましょう。
私たちは罪を赦された罪人です。罪の残滓(ざんし)を持っています。つまり、心のどこかに神を疑う思いが潜んでいます。サタンはそれを掻き立てて私たちを混乱に陥れ(おとしいれ)、神から離れさせようとします。
しかし、ニーチェやサタンの主張が偽りであることは歴史が証明しています。使徒たちや初代教会時代の信徒たちばかりか、神を愛する無数の人々が、キリストの聖名のために、主を愛するが故に最も恐ろしい殉教の死さえ敢えて受けて来たのです。
この世の思想家たちの巧みな言葉、ましてやサタンには、私たちの言葉や信念では立ち打ちできません。だからこそ、神の武具(②エペソ6:10-18)や、星の数ほどの証人の証(ヘブル12:1)によって戦うのです。
■ 本論2 神の摂理 「何ものも神の愛から私たちを引き離せない」
_†_ ヨブ記2:6 _†_
2:6 【主】はサタンに言われた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな。」
_†_†_†_
この6節は、参考資料掲載の「ハイデルベルク信仰問答 問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか」の答え「何ものも神の愛から私たちを引き離せない」の証拠聖句の一つで、今日の説教題をここから取っています。
「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな」(6節)、はサタンを支配する神の言葉です。サタンは、滅ぼされる日までその活動が許されてはいますが、神の摂理とご支配の範囲内でしか活動できません。ですから私たちは、主でいて下さる神を信頼して試錬を忍耐できるのです。
私たちの神はただ「忍耐しなさい」と言われるだけではありません。7節以下の如くヨブの姿を赤裸々に聖書に記してまでして私たちにサタンのやり口を教え、耐え難き試練を私たちが耐え忍べるように教え導いて下さっています。
■ 本論3 信仰者への試錬 「ヨブが被った疾患に見るサタンの狡猾さ」
_†_ ヨブ記2:7 _†_
2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブを足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打った。
_†_†_†_
「悪性の腫物(しゅもつ)」とだけ言われており病名は判りませんが、今日でも世界73か国の14億人以上の人が脅威にさらされている象皮病の一種だと考えられています。
私たちは、この病気か何なのかよりも、7節、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物」との記述が申命記28:35と酷似していることに注意を払わねばなりません。これは非常に大事なこと、今日のメッセージの核心的部分です。
_†_ 申命記28:35 _†_
28:35 【主】はあなたの膝とももを悪性の腫物で打たれ、あなたは癒やされることがない。それは足の裏から頭の頂にまで及ぶ。
_†_†_†_
この御言葉がどの様な文脈で書かれているかと言いますと、
_†_ 申命記28:15 _†_
28:15 しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。(新改訳2017)
_†_†_†_
この文脈で律法に記された「悪性の腫物」がヨブの全身を覆ったわけです。ですから、ヨブは神から呪われたと思ったに違いありませし、彼の妻も含め周囲の人々は、日本流に言うところの、「バチが当たった」「天罰が下った」と信じて疑わなかったでしょう。
_†_ ヨブ記2:8 _†_
2:8 ヨブは土器のかけらを取り、それでからだを引っかいた。彼は灰の中に座っていた。
_†_†_†_
新改訳2017聖書は「(ヨブは)灰の中に座っていた」と訳してますが、70人訳聖書の英語訳(LXE)では、
_†_ ヨブ記2:8、70人訳聖書の英語訳(LXE) _†_
2:8 And he took a potsherd to scrape away the discharge, and sat upon a dung-heap outside the city.
_†_†_†_
「町の外の汚物の山の上に」と訳しています。この光景を想像してみて下さい。直前まで「東の人々の中で一番の有力者」(1:3)であったヨブが、
「彼は神からのろわれた」と蔑む衆目に曝されながら、
象の様に堅くなり皺(しわ)がよった皮膚を土器のかけらで体をかき、
深い悲しみのうちに耐え難い痒み(かゆみ)と恥とを堪え、
集落の入口(城壁の外)にあるごみ捨て場、すなわち、ごみと共に焼却灰や土器のかけら、糞や動物の死骸なども捨てた場所に座していたのです。
ヨブは、誰が見ても、また本人も「神に呪われた」「神に捨てられた」としか思えないやり口で試みられたのです。これは、この世やサタンが用いる、実に狡猾な常套手段でもあります。
思い出してください、誰が見ても「主に従わず神に呪われた」としか思えないやり口でサタンに試みられたのは、「門の外で苦しみを受けられた」(ヘブル13:12)主イエスもです。
律法の書申命記に、木(十字架)の上に掛けられることの意味がこう記されています。
_†_ 申命記21:22-23 _†_
21:22 ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、
21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。
_†_†_†_
人々は「イエスは神に呪われた」と主イエスを蔑みましたが、
_†_ イザヤ53:4-5 _†_
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
_†_†_†_
この預言の成就として、主イエスも試みを受け、私たちの罪を一身に負って神の呪いを受け、裁かれ苦しまれたのです。
_†_ へブル2:18 _†_
2:18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
_†_†_†_
しかし、主はよみがえらされサタンに完全に勝利されたごとく、私たちもイエス様と同様に蘇らされ、サタンに完全に勝利する時が必ず来ます。
■ 結び いかなるものも私たちを神から引き離す事はできない
この後、さらに妻が酷い言葉でヨブに追い打ちを掛け(9節)、また続いてやって来たヨブの友人たちによっても散々試みられますが、最後に神はヨブに神の摂理を悟らせ、全き悔い改めを経て試練に勝利させられました。
神は、私たちを御国の世継ぎに相応しくする目的で、金をるつぼで精錬する如く試錬をお与えになります。
試錬の軽重(けいちょう)の度合に違いはありますが、終わりの日まで続きます。その時サタンは、私たちを疑いと惑いに引きずり込み神への信頼とサタンとの霊的戦いを放棄させ、命の源である神から私たちを引き離そうと試みます。
私たちが試錬に会った時、試みに会ったときは、このヨブ記を思い起こしましょう。
そして、悪魔の誘惑に決定的に勝たれた主イエスに心を向けて拠り頼みましょう。
_†_ へブル2:18 _†_
2:18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
_†_†_†_
この様にして神は、全被造物をそれぞれが創造された目標へと導かれます。どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできません。
アーメン
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