1.
クリスマスに私どもが忘れることのできない美しい情景を、今日から3週続けますが、最初の今日は、「ベツレヘムの星」、「三人の博士」の物語です。
マタイ2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
今日の聖書箇所には非常に特徴的なことがあります。それは、一つの単語(新約聖書が記された時のギリシャ語の動詞)が4回も繰り返し使われていることです。この事は、信仰に生きることがどんなに幸いなことかを強く印象づけています。
その動詞とは、2,9,10,11節で下線を引いた「見た」、「会った」と訳さた言葉で、しかもその主語は博士たちだけです。これら4箇所以外の「見よ」とか「見つかったら」と訳されている言葉は別の言葉です。
では、この言葉の意味を、他の用例に尋ねてみましょう。
ヨハネ12:40-41 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
ここでの「見ず」、「見た」とは、肉眼で見える見えないではなく、物事の真相を見抜いて悟ることです。ですから、今日の聖書箇所は、「博士たちは、闇に輝き出た星を神が現して下さったしるしとして信仰によって受け止めた。そして信仰によって、行く先を知らぬまま出掛けて旅を導かれていった。その結果、降誕されたイエスに会いまみえることが出来た」、そういう出来事を記しています。
今日は、聖書に記された出来事を、私たちの求道生活や信仰生活と重ねながら御言葉に聞きましょう。
2.神は、人を救い主へと導かれる
マタイ2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
■神は、あらゆる被造物を用いられる
ここでは、神は博士たちを導く為に星を用いられています。聖書では星が神格化されることはありません。神が被造物の一つを用いて博士たちを導かれたからこそ、御子イエス・キリストを礼拝出来たのです。
■博士たちは「見た」ので出掛けた
博士たちの旅は、長い道中、多くの困難をのりこえてゆかなければならない旅だったでしょう。神は一つの星を用いて、博士たちの長く、しかも最終目的地が判らないような旅を導かれたのです。
ここで旧約のアブラハムを想起します。
ヘブル 11:8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
さて、べツレヘムに到達した博士たちは言いました。
マタイ2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
博士たちは、その星が、ただ美しい星だとか大きな星だとか抽象的なことは抜きに、自分たちは、神が見せて下さった「ユダヤ人の王(救い主)がお生まれになったしるし」に導かれて礼拝するために来ました、と信仰を告白したのです。つまり、博士たちは闇に輝き出た光を見て、肉眼で見えるところではなく、物事の真相を見抜いたのです。
■博士たちが真っ先に導かれたところ
おそらく博士たちは、エルサレムに行ったら王や人々と一緒に救い主のお生まれを喜べるだろうと思っていたことでしょう。ところが、状況は全く違いました。
マタイ2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
なんと神によって彼らが最初に導き入れられた所は、主イエス・キリストの敵、不信仰な人々の真っ直中でした。博士たちは、その場の空気を肌で感じて、これはどうしたことかと動揺したでしょう。その事は博士たちにとって大変な試練だったでしょう。
この出来事は、私たちが信仰を告白した時に周りの人々がしばしば示す反応と重なりませんか。信仰を持ったことを一緒に喜んでくれるどころか冷や水を浴びせられたり反対されたりしたことはありませんか。
これらの事を思うと、神の導きは、私どもの期待としばしば異なっていることが分かります。それでもなお神のご計画の内にあるのです。私たちの求道、信仰生活でも、大事なことは、信仰することの先をこういうものだろうと決めてかからず導かれていくことです。
3.神は必ずゴールへと導いて下さる
■神の導きに従うなら
博士たちは、闇から輝き出た光に導かれ行くことを良しとしました。
マタイ2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
彼らが東方で見た星が「先に進んで」とあります。これは、まるで親が子どもの手を引いて進んでいくように、神が博士たちを、不信仰な人々の中からイエスの元へと導いていかれたことの表現です。
■神が導いて下さるゴールとは、「非常な喜び」
博士たちの長旅のゴールが記されています。
マタイ2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
「非常な喜び」と言われても、感情表現を控えることに慣れてしまっている私たちにはピンと来ないかも知れません。この「非常さ」が判る聖書箇所を見てみましょう。
マタイ19:24-25 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。
この非常さで、博士たちは喜んだわけです。信仰が報いられる時の喜びがこれです。
「幼な子に会い」、とうとう彼らの信仰で始まった長旅は、救い主と会いまみえることで報いられたのです。
これは救われた私たちも経験することです
■非常な喜びにあふれた結果
さて、常な喜びにあふれた博士たちがしたことが書かれています。
マタイ2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
(1)「ひれ伏して拝む」
非常な喜びは、本来あるべき神礼拝となって現れました。福音書に記されているイエスに癒やされた多くの人々が「イエスを拝した」のと同じ行動です。
私たちの神礼拝は、天からの喜びが私たちにあふれた結果なされていくのです。
(2)「捧げる」
私たちの献金、奉仕も、天からの喜びが私たちにあふれた結果なされます。
4.クリスマスは、私たちが信仰と不信仰の岐路に立つ時でもある
ところで、博士たちは、神に導かれてクリスマスを非常に身近に感じることが出来た人々です。
この博士たちのように、神に導かれることを良しとする人々のことを、イエスは次の様に言われました。
ヨハネ8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
そして博士たちが「命の光」を持った結果、
マタイ5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
ですから博士たちが携えていった喜びの知らせ、
マタイ2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
この知らせはヘロデ王ばかりかエルサレムの町中にたちどころに伝わったのです。ですが、その結果は、
マタイ2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
「救い主があなたの王として来られた」と告げられて、素直に喜べる人ばかりでは無かったのです。つまり、へロデもエルサレムの住民も、自分たちの王として生まれた王とは誰か、ということを問わざるをえないように、クリスマスが起こったのです。
クリスマスを迎える私たちも真剣に考えなければならないことは、このお方は私たちにとって誰かということです。「救い主です、私の王です」と口で言うことは易しいのですが、現実には難しいのです。なぜ難しいかと言うと、へロデの場合と同様、王座から自分は退いて新しい王を迎えることになるからです。
私たちはクリスマスに当たって、どういう意味で、この喜びを受けようとしているか、
救いに入れられております者もまた改めて問い直してこそ、クリスマスの喜びが私たちにもたらされます。
