1.「救いが現れた」
クリスマス、私たちはどんなものを見て、どんなもので満されたいか、思ってみたことがありますか。
主イエスは、ご自身が生まれるより700年ほど前に神さまが預言者イザヤを通して言われた言葉を引用して言われました。私たちがクリスマスに見るべきもの、私たちを真に満たすものはこれだ、と言われました。
ヨハネ12:38 …「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。
主イエスは言われました。ベツレヘムで生まれ十字架に掛かられる自分について、「人々は私を信じようとしない。だが、私にこそ主のみ腕が示された、神の力が現されたのです。私こそ、あなたたちがクリスマスに見るべきもの、あなたたちを満たすものです」と。すなわち「救いが現れた」こと、これこそ神から私たちへの最高の贈り物なのです。
2.「神の力が現れた」
私たちは、本当のところは、誰一人として明日どうなるか分からず毎日生活しているのではないでしょうか。私たちの知恵は思っているより小さく、私たちの力は脆い(もろい)のです。ですから、誰でも自分を支えてくれる力が欲しいのです。そういう力強い主の腕、すなわち神の力は、どこに現れているか聖書はこう告げます。
ルカ2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
凡そ2000年前、十字架に掛かる為にベツレヘムでお生まれになったお方に「主のみ腕が示された」と。
さて、神の力が現れた人と言える様な人とは一般にどんな人でしょうか。
常識的に考えるなら、容姿は逞しく美しく卓越した能力を持ち、自他共に認めるような人でしょう。
では、イエス・キリストはどうだったでしょうか。主イエスご自身が引用された旧約聖書イザヤ書53章、紀元前700年頃の、救い主についての預言を見てみましょう。
(1)誰一人想像不可能
イザヤ53:1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
これは、神がご自分の計画を、誰一人想像不可能な方法で明らかにされることを強調する表現です。
(2)この世的には何の魅力もない
そして、
イザヤ53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
「主の腕」神の力があらわれた救い主の姿はこうだ。この世的には何の魅力もない、と神は言われます。
-私たちの目と心を引きつけるような容姿はない
-人を圧倒するようないかめしさ、厳かさはない
-私たちの恋い慕うような美しさもない
これらは、主イエスに人間味が無いことを言ってはいません。要するに、救い主は人々が期待するイメージから懸け離れているのです。事実、救い主イエス・キリストはこの預言の通りでした。
一般に、歴史上英雄や偉人と言われる人は、それ相応の資質や業績をもっていました。ですからイエスに関心を抱いてイエスを見る時、私たちはその“物差し”や“メガネ”でイエスを見てしまいがちです。無意識のうちに、自分の先入観や好みでイエスを見てしまうのです。するとどうなるか。期待するイメージから懸け離れているイエスを救い主と認めることは出来ないのです。そして、次の様なことすら現実に起きるのです。
イザヤ53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
嫌われる、侮られる、尊ばれないのです。これは主イエスが何か悪事をした報いではありません。イエスは、
ピリピ 2:6-8 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
罪無き神の一人子が、私たちの罪を身代わりに全て負って下さり、私たち罪人の一人になり切られたのです。そして罪故に裁かれる罪人の悲惨さと、私たちが救われなければならない存在であることを私たちに悟らせるのです。
それゆえ、主イエスはこの世的な魅力で人々に訴え魅了しようとはなさらず、この世的人間的願望を満たすような資質を一切隠して、ひたすら神と人との僕に徹せられたのです。
人間的願望を満たさないように思える神からの贈り物イエス・キリストこそ、実は私たちがクリスマスに見るべきもの、私たちを真に満たすものです。
3.クリスマスに何を見るか
今は町中の至る所で、知恵と工夫を凝らしてクリスマスが飾られています。それはそれで良いと思いますが、何故そうするのでしょうか。クリスマスは、私たちの慕うべき美しさを持っていて欲しいのでしょうか。
確かに、聖書に記されたクリスマスの情景、たとえば羊飼いと羊の群れ、星と天使のみ告げ、などはどれも清らかな美しさに満ちています。
ところが、聖書は、神が御子を遣わして救おうとする人間の側の現実をも浮き彫りにしています。たとえば、東方からやって来た博士たちからユダヤ人の王が生まれたと聞いたへロデ王やエルサレムの人々みんなは喜ぶどころか不安になった。博士たちと羊飼いたちの他は誰も救い主を訪ねて行かなかった。しかもへロデ王は、自己保身の為に国中の二歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。
すなわち「だれが信じたか(=誰も信じなかった)」(ヨハネ12:38)とあるように、神の力の現され方に問題があったからではなく、人間の側が“信じる気がしない、信じたくない”ということで、自分の都合や好みで不信仰を選び取り、自分の欲望や保身の為には手段を選ばない罪人の生々しい姿を浮き彫りにしています。
それでも、クリスマスに罪深い人の姿と真剣に向きあう人は少ないかもしれません。今の世界は醜い出来事が日常茶飯事になってしまっている。醜いことは思い出したくない。自分も罪人だとは思いたくも無い。クリスマスくらい清らかで暖かな思いで過ごしたい、というのも人情でしょう。
しかし、キリストが十字架にかかられたことによって、すべての人は罪人であることは明白です。
Ⅰヨハネ1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
自分も含めて全ての人間は罪人、と認めないことは神を偽り者とすることです。
4.結び あなたも救われよ!
イザヤの預言に、
イザヤ53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
とあります。主を尊ばなかった「われわれ」とは、預言者イザヤの時代の人々のことだけでも、主イエスが地上におられた時代の人々のことだけでもない、あなたも「尊ばなかった」のではないか、と問うているのです。私たちの罪を負って苦しめられ醜い姿になられたイエスを見ないで、クリスマスの美しい面ばかり見ようとしていませんか?神が聖書を通して現して下さっている“救い”を、ありのままに見るように、と私たち一人ひとりは問われています。そして同時に、神は私たちを励まして下さっています。
Ⅰコリント1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
