紀元前の幕屋(主が神の民の中に住むための聖所)の祭壇で燃え続けた火は、私たちと深い関わりがあります。神が主イエスにより私たちを救うことの予型(前触れ)だからです。
祭壇の火は、人間の罪の身代わりとしての生贄(いけにえ)(動物)を焼き尽くす為の火で、その炎を通して、人間の罪の結末と、神は悪や罪に決して妥協しないことを絶えず意識させたのです。
しかし同時に、祭壇の火はまことの信仰者を救う手段でもありました。祭壇の火によって、 “私”ではなくて動物を身代わりに焼き尽くされることで、“私”の罪が焼き尽くされて赦され、“私”と神との関係が回復する、このことを礼拝者は絶えず心に刻んだのです。ですから、罪に苦悩し悲しむ“私”が悔い改めて生贄(いけにえ)(あがないの供え物)を携え、常に燃え続けている祭壇の火のもとに行くなら、“私”の罪は赦されたのです。
また、祭壇の火が燃えていることは、神が授けて下さった恵みの契約に対する神と神の民双方の真実さ・忠実さを現しました。ですから祭壇の火が消えることは、主と神の民との恵みの契約が断たれること、罪の贖いの手段が無くなることを意味しましたので、「祭壇の火を燃え続かせよ」と祭儀的律法に記されているのです。
ところで、この祭壇の火を燃え続かせるという救いの予型(前触れ)は、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」(ローマ 3:25)ことで成就し現実のものとなり、神は「イエスを信じる者を義と」(3:26)して下さっています。
また主イエスは、「祭壇の火を燃やす」と同じ言葉を使って教えて下さりました、「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい」(ルカ12:35)、主イエスへの信仰を堅持して不意に訪れる終末に備えなさいと。しかし主イエスは教えるばかりではなく、主イエス自ら私たちに関わって下さります。十字架と言う余りにも厳しい出来事に意気消沈していた弟子たちへの愛の御業を思い出しましょう。その時「彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』」(ルカ24:32)。
私たちは、如何なる人生の嵐に遭遇しようとも、希望を持って御言葉に聴こうではありませんか。その時、主イエスご自身が「聖書を説き明して」、すなわち御言葉に秘められた意味を私たちに「開いて」悟らせて下さります。御言葉の「たきぎ」は、私たちの内に霊的炎を高々と燃え上がらせ、その火をとこしえに燃え続かせます。 (岡本雅幸 牧師)
