私事で恐縮ですが、娘(長女)に男の子が与えられました。娘たちが生まれた時も大喜びしましたが、今回は長年祈り続け待ち望んできたことだけに、“新鮮な”喜びに満たされて、家内と一緒に讃美歌を歌い主を誉め讃えずにはおられませんでした。
お産が近づいた頃、私は長女に一つの聖句を贈りました。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません」(ヨハネ16:21)。長女はこの聖句を陣痛室と分娩室でも思い浮かべつつ、「いや、この痛みは忘れないでしょ?!もしも体が痛み自体をいつか忘れたとしても、このものすごく大変だった記憶とリンクして、頭では絶対忘れられない!」と思っていたそうです。
ところで、この喜びと同時に不思議な気持ちになりました。それは“ひとり生まれたことで”、その赤ちゃんを中心とした新しい関係が生じたことです。娘には母親、私たち夫婦にはお爺ちゃんお婆ちゃん、祖母にはひい婆ちゃん。次女は言っていました「叔母になっちゃった」と。
男の子が生まれた喜びと言えば、聖書に記されたクリスマスを外せません。当時のユダヤの王ヘロデと臣下たちは別として、福音書に記された主イエス誕生の記事は喜びに満ちています。ルカによる福音書2章には、神に導かれて出会った幼子イエスを抱いたシメオンの言葉がこう記されています。「シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから」(ルカ2:28-30)。
シメオンは信仰によって、幼子に救いの約束の実現・成就を見て喜び神を誉め讃えました。イエスがお生まれになったことで、滅ぶべき罪人に、“救われて御国を受け継ぐ「神の子」となる新しい関係”への招きがもたらされたからです。主イエスは「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:14)と言われました。
クリスマスはとっくに過ぎてしまいましたが、私たちキリスト者は、この日に生まれた「ひとりのみどりご」を信じたことで、私たちは主イエスを中心とした神との新しい関係に入れられ、私たちの人生は新しくされています。
