今年は宗教改革500年記念の年ですので、今月の礼拝では、宗教改革当時に誕生した讃美歌から一曲を歌い、説教ではその讃美歌の歌詞となった聖書箇所から福音をお伝えしています。第二回目の今朝は讃美歌174番「目覚めよと呼ぶ声す」とマタイによる福音書25章です。
1.思慮が浅い乙女と思慮深い乙女のたとえ話
イエスは、花婿を出迎える十人の乙女の譬えを用いて、思慮深く幸いな人とはどの様な人か教えておられます。
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
(1)この譬えの背景
当時のユダヤ人の結婚式の慣行については以前にもお話ししましたが、あらためてお話ししましょう。花婿が花嫁宅を訪れる直前に、前触れの男が「そら、花婿だ。迎えに出なさい」と告げるのです。すると、花嫁の友人が揃って花婿を出迎えます。ただ、花婿が準備に手間取ると花嫁宅に着くのが真夜中になることもあったそうで、この事が今日の譬えの背景にあります。
(2)何が譬えられているか
花婿はイエス・キリストです。この譬えでは登場しませんが、花嫁はキリストの教会です。譬えの中心になっているのは花嫁の友人十人の乙女たちで、キリスト者が譬えられています。十人のうち五人が思慮深く、五人は愚かだったとありますが、この数字に深い意味はありません。キリスト者でも、ある者は思慮深い乙女たちのようであり、ある者は愚かな乙女たちのようだと、主イエスは言っておられるのです。そして、花婿が花嫁宅を訪れる出来事には、究極的には終わりの日における主イエスの再臨が譬えられており、また終わりの日以前の医学的死、臨終、俗に言う“お迎え”が譬えられています。ですから、今日の例え話は、一人の例外も無く全ての人に向けられています。
2.「思慮深さ」とは?
25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
25:5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
花婿はなかなか来なかった。夜も更けて乙女たちはみな待ちくたびれて、居眠りをして寝てしまったとあります。ですから、ここで教えられる思慮深さとは「目をさましている」ことでないことが分かります。思慮深さとは、花婿がいつ来ても迎えられる備えをキチンとしたことです。花婿はいつ来るか分からない、夜になるかもしれない。すると花婿を迎えるには「あかり」が必要になる。そのあかりを灯すには油が不可欠だ。この油を用意するかしないかが思慮深いか浅いかの決定的違いです。そして、この油は、信仰が譬えられています。
3.思慮深い者と思慮が浅い者との決定的違い
思慮深い者と思慮が浅い者との違いは、花婿が来た時になって、はっきりしました。
25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
25:8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9節以下の記述から、油を分けてあげなかった乙女たちが批判されることがあるようです。しかしイエスの譬えを聞く時には、中心的メッセージに注意を払うことが大切です。枝葉末節的なことに拘ると、的外れな解釈に終始して福音を聞き取ることが出来ません。
究極的には終わりの日における主イエスの再臨が譬えられており、また終わりの日以前の医学的死、臨終、俗に言う“お迎え”が譬えられています。ですから、今日の例え話は、一人の例外も無く全ての人に向けられています。で終えてしまします。
聞くことがはそういうことを不親切、の会話を第二は、花婿がいつくるかわからないので、慎重に備えていたことです。
この様に、主イエスはこの譬えから、私たちの感覚では「その日、その時」が遅く感じられても、“油断”せず備えをして待っているべき事を教えておられます。
4.「その日その時」
主イエスは13節で、
25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
主イエスが、私たちには分らない「その日、その時」の意味は、イザヤ52章の預言で明確になっています。
イザヤ52:7-10 よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。/聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。/エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。/主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る。
このような「その日、その時」がどんなに遅くなっても「目をさまして」待つことを主イエスは教えておられます。
5.目をさまして待つ
では、「目をさまして」待つとはどういうことでしょうか。先ほどもお話ししましたが、この譬えでは、思慮深い乙女も愚かな乙女も「うとうとして眠り始めた」とあります。ですから単に肉体的に目を覚ましていることでないのははっきりしてます。
主イエスは「目をさまして」いなさいと何度も言われました。眠っていては何も見聞きできないことを考えれば、主イエスの言葉の意味が自ずと分かってきます。霊的な目を覚ましていなければ、神がなさる業を見ることも神の言葉を霊的な耳くことも決して出来ない、と言うことです。そして目を覚まして備えを整えていれば、いざという時に慌てふためき恥をかくこともありません。
私たちは、この世の現実を色々見聞きします。確かに現実は無視出来ません。しかも私たちは、見聞きするこの世の現実に支配され易い弱さがあります。ですが、私たちキリスト者は、それだけで終わってはなりません。
神が今一体何をなしておられるのか、あるいは何をなされたか、そういうことに霊的な目を向けていなさい。
この騒がしい世の中で、神は何を語っておられるか、そのことに霊的な耳を傾けなさいということなのです。
それが、聖書が教える「目をさまして」いることで、これがキリスト信者の生き方であり、“油断”せずに「その日、その時」を待つことです。
6.「目覚めよと呼ぶ声す (Wachet auf, ruft uns die Stimme EKG121)」(讃美歌174番)の誕生
■フィリップ ニコライ
ここまでお話しした御言葉と信仰を歌詞としている讃美歌が174番です。この讃美歌が誕生した背景を簡潔にお話しします。
作詞作曲共にフィリップ・ニコライという牧師によります。彼はルターが天に召された10年後にこの世に生を受け、カトリック教会がドイツのあちこちで勢力奪回を謀り、しかもカルヴァン派とルター派の対立も深刻な時代の真っ只中に、40歳でウンナと言う町に赴任しました。
ところがその翌年になって、ヨーロッパ全土で人々を恐怖に陥れていたペストが、この町にも襲来したのです。
おびただしい人々が病に倒れ町はパニック状態に陥り、多くの人々が町を捨てて逃げ出す中で、ニコライは町に残り、病人のために祈り、病人を励まし、そして死者を埋葬した。一日に三〇人もの死者を埋葬しなければならなかった日もあったと彼は書き残しています。その中には彼の二人の妹も含まれていたそうです。
この様な状況にあって、彼はペスト患者のため、またペストの恐怖に怯える人々のために、『永遠のいのちの喜びの鏡』という本を著しました。そこに収められたのが、讃美歌174番の基になった「目覚めよと呼ぶ声す」と題された讃美歌です。
7.讃美歌で歌われた福音
家族を奪われてゆき、死の恐怖に怯える人が必要とするのはどんな言葉でしょう。ただ死のみを待つ人々に届く言葉とはいったいどんな言葉でしょうか。憐れみ? 同情?
いいえ。人の言葉では無く、一点の疑いもないキリストの言葉です。蘇りの命の約束と希望の言葉です。明確な救いの宣言です。
彼は、その御言葉と信仰を讃美歌に託して、死の恐怖に怯える人々に希望と励ましを与えたのでした。
8.私たちへのメッセージ
聖書は、旧約も新約も、信者を、主の日への待望において生かしてきました。
今朝の聖書が教える「思慮深さ、賢さ」とは、たとえ一時は居眠りするにせよ、よそ事に心が奪われるにせよ、とにかく、「花婿だ、迎えに出なさい」という声が聞こえた時に即座に対応できる「用意」をしている賢さのことです。
もちろん、「花婿だ、迎えに出なさい」という声は、いつ、どこから聞こえてくるか、わからない。
まさに終わりの日であれば、
黙示録10:7 第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。
と書かれているように、ラッパの音として聞こえるのでしょう。しかし、その日以前に天に召される人も大勢います。
実は、その様な人にも「花婿だ、迎えに出なさい」という声は聞こえて来ます。その声とは、兄弟ラザロのことでベタニヤのマリヤが聞い言葉です。
ヨハネ11:28-29 マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。/これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、イエスのもとに行った。
「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」、この声です。その声は、親しい者の死に際して永遠を思う心が芽生える時か、自分自身が臨終の床にある時か、とにかくいつか、わたしたちは聞くことになります。しかし、イエスは言われました。
ヨハネ14:1-3 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。/わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。/そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
たとえ私たちが、一時は居眠りするにせよ、よそ事に心が奪われるにせよ、「花婿だ、迎えに出なさい」、「主がおいでになって、あなたを呼んでおられる」という声に即座に応答できるように、思慮深く、賢く「用意」をしている人は幸いです。
◎歌詞、曲の参考サイト
https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa174.html
◎コラールに関する参考文献
『コラールのあゆんだ道 ルターからバッハへの二百年』 長與惠美子、東京音楽社、1987年
『コラールの故郷をたずねて』 小栗献、日本基督教団出版局、2007年
