はじめに
先週は、マリヤが御使いからの受胎告知と親戚のエリザベツから祝福を受けて、マリヤが、
ルカ1:46-49 …わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救主なる神をたたえます。/この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、/力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださった…
と神を誉め讃えた聖書箇所に聞きました。
今日は先週に続く出来事であり、先週と同様に聖誕劇(降誕劇)やクリスマスカードに描かれる場面です。しかも、マリヤが聞いた神の言葉が現実になった出来事です。しかし、それは家畜の臭気が立ちこめ、見すぼらしい静寂の中でした。
この出来事は誰にも気付かれず、ただ「夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」羊飼いたちに、救い主の誕生が知らされたのです。
1.聖書に記された出来事
(1)御使いによる告知
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
御使いが言いました。あらゆる人々にとって大きな、いや、この上ない喜びを知らせよう。私たちの人生を賭けるにふさわしいお方が生まれた!と。
(2)その「しるし」
その生れたお方は救主なるキリストだ、その証拠を見せてあげよう。と御使いが言ったのが12節。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある」ことが証拠だというのです。常識的には受け入れ難いです。しかしこれは、旧約預言者イザヤを通して予め明らかにされていた、神のご計画でした。
イザヤ53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
このように預言された救い主の降誕に相応しかったのです。
普通の人なら、このような状況で生まれた赤子をわざわざ見に出かけようとはしないでしょう。けれども、
2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
世間一般の常識や損得で救い主を知ろうとするのではなく、ただ御言葉を聞いて信じ受け入れることによってのみ救い主を知ることが出来る、これが神の知恵です。同時に、救い主なる神の御子がこのような低い状態で生れたのは、どんな境遇に置かれた人であっても救い主と友になれることが象徴されています。
(3)神をあがめ、また讃美する
そしてこの出来事は、
2:20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
と、締め括られています。
「あがめる」とは、“神が生きて働いておられることを認め、神の素晴らしさを言い表す”具体的な行動です。
聖書には、
コロサイ3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
と書かれていますが、このことが御告げを信じた羊飼いたちによって自然体で為されたのです。
羊飼たちは「神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」とあります。この言葉は、劇の舞台から役者が退いていく様な表現ではなく、神を崇め讃美する新しい人生がこの時から始まったことを暗示しています。
2.讃美歌で歌われる聖書信仰
(1)ルターによる讃美歌(コラール)作曲の意図
ところで、今年は宗教改革500年を記念する年です。
宗教改革者ルターは、「御霊の剣、すなわち、神の言」(エペソ6:17)による戦いの末に、隠蔽され見失われかけた福音を取り戻し、御言葉に立つ教会を立て直し、御言葉を自分たちの言語で読めるよう聖書翻訳をも成し遂げた神の尊い器です。
そのルターの生涯を言い表したような聖句があります。
エペソ5:19 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
宗教改革以前は、宗教的俗謡は別として、讃美は司祭と聖歌隊の専有物同然でした。この讃美を、農夫が畑仕事をしながらでも、主婦が家事をしながらでも、自分の言葉でいつでもできるようにルターは努めました。
絵画で見るルターは厳つい(いかつい)顔をした神学者ですが、子どもたちとも一緒に讃美たことが伝えられています。その、次の世代を担う子どもの信仰教育のために作られたドイツ語の讃美歌の一つが、私たちの讃美歌では101番です。
(2)日本語に翻訳された讃美歌101番
礼拝説教の真ん中で讃美歌を取り上げるのは異例のことですが、その理由は直ぐに納得いただけることと思います。讃美歌101番の歌詞はメロディーとよく調和し、これ以上望めない名訳と言われます。しかし残念ながら、この讃美歌も日本語翻訳上の制約を受けています。“百聞は一見にしかず”ですので、原曲の直訳を見てみましょう。聖書のみに基づいた信仰が生き生きと歌われています。
ドイツ語原曲の歌詞の特徴をかいつまんでお話しさせていただきます。
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『コラールのあゆんだ道 ルターからバッハへの二百年』、 長與惠美子 著、 東京音楽社、 1987年、74~78頁に掲載された原曲歌詞の直訳を紹介
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①歌詞の各一節は短いものの、原曲の13節という長さに驚かされます。
②ですが全体の構成は、今朝の聖書箇所とそっくり同じです。まず御使いの告知から始まり、救い主をお迎えする喜びと、キリストの降誕の意味が唱われ、信仰告白を経て神への讃美で締め括られています。7節以降は子どもたちによって歌われることが意図されています。
③ややくどいきらいがあるものの、イエスを身近に感じて、キリスト降誕の意義と喜びが歌う子どもの脳裏に絵画のように印象づけられるような配慮が行き届いています。
④また、珠玉の様な信仰告白が、ごく自然な言葉で言い表されています。
⑤偶像礼拝につながりかねない文言、例えば「マリヤ」は一切無く、徹頭徹尾、神にのみ栄光を帰して讃美が為されています。
3.結びの奨励
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
この通りだからこそ、聖書は私たちを励まし勧めます。
コロサイ3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
さあ、私たちも、このクリスマスと来たる新しい年へと進んで行きましょう。
参考資料
■原曲
Vom Himmel hoch da komm' ich her (EKG16) 「高き空よりわれは来れり」
詩:ルター(1535)、曲:古いラテン語讃美歌
■参考図書
『コラールのあゆんだ道 ルターからバッハへの二百年』、 長與惠美子 著、 東京音楽社、 1987年
『コラールの故郷をたずねて』、 小栗献 著、 日本基督教団出版局、2007年
■参考Web
https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa101.html
