「深き悩みの淵より」 讃美歌で歌われる福音(讃美歌258番)
詩篇130:1 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
130:2 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
130:3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
130:4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
130:5 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
130:6 わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
130:7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
130:8 主はイスラエルを/そのもろもろの不義からあがなわれます。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 130篇1~8節
今年は宗教改革500年記念の年ですので、今月の礼拝では、宗教改革当時に誕生した讃美歌から一曲を歌い、説教ではその讃美歌の歌詞となった聖書箇所から福音をお伝えしています。一回目の今朝は、讃美歌258番「貴きみかみや、悩みの淵より」と詩篇130篇です。
https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa258.html
1.深い淵から呼ばわる
一人の詩篇記者が、神に呼ばわっています。
詩篇130:1-3 主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。/主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。/主よ、あなたがもし、もろもろの不義に 目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
「深い渕」とは、そこに足を踏み入れたが最後、どんなにもがいても、ただ底知れぬ深みへとぐいぐい引きずり込まれていく絶望的な所です。詩篇記者は、自分の不義、罪という絶望の渕から赦しを懇願して神を呼んでいます。
2.「深い淵」に閉じ込められていたマルチン・ルター
16世紀初頭、この詩篇記者と同じく「深い渕」から神に呼ばわり続けた男がいました。その男とはマルチン・ルターです。ここからしばらく詩篇130篇から離れてマルチン・ルターの話をいたします。
ルターが18歳から熱心に学び始めたカトリック神学では、「功績にしたがって、すなわち戒律を守り、よき行いを積む者に神は報い給う」、「自己のなかにある限りを為している人に神は恩恵を拒まない」とありました。ルターは21歳で修道士となってからは、過酷なまでに“よき行い”に励んだのでした。
後日ルターは、当時の自分を振り返ってこう書き残しています。「私は修道士という非難されない生活をしているにもかかわらず、神の前に不安な良心をもつ罪人であると感じた」と。ルターにとって、神は罪を怒り厳しく裁く神だったのです。ここに、非聖書的な宗教、神学・教理の恐ろしさを見て取ることが出来ます。その恐ろしさとは、福音を覆い隠し、人を「深い淵」に閉じ込めたまま救に与れないようにすることです。
3.まことの「よきわざ」
私たちの教会は、「ウエストミンスター信仰基準」(日本キリスト改革派大垣教会のサイト参照)
http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/index.htm
を信仰告白としています。その中のウエストミンスター信仰告白第16章「よきわざについて」には、多くの引証聖句を伴ってこうあります。
[5] わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来たるべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり、またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである。
よい行いによっては罪の赦しが与えられないことは、聖書から明明白白です。
4.福音に目を開かれたルター(塔の体験、1514年?)
やがてルターは、『このときにわかに目の前が明るくなって天国への門が広く開かれたように感じた』と自身が語った体験をします。
ローマ1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
との聖句を神から示されたのです。当時既に神学博士だったルターですら、天からの啓示を受けて初めて、「神はあわれみをもつて信仰によって生きる人を義とする」との真理を自分のものとして受け取ることが出来たのです。
5.この世の現実にも目を開かせられたルター
さて、ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の提題を張り出す二年前の頃のことです。信者から告解を聴く役目を持つ司祭になっていたルターは、信者たちが免罪符をほとんど強制的に買わされ酷く苦しめられていることを初めて知ったのです。金銭によって罪を贖うことが出来ると、当時の教皇をはじめとして大司教・司教たちも信じていたのか否かは別として、事実カトリック教会は一般民衆に「金銭によって罪を贖うことが出来る」と説き、その大部分が権力者たちの罪深き賛沢な私生活や豪奢な建造物に費やされていたのです。
6.真理を憎む人々からの攻撃
ルターは「義とされ救われるのは信仰による」ことを掲げ、1517年10月31日免罪符販売に反対して、神学者たちに討論を呼びかけました。あの有名な95ヶ条の提題をヴィッテンベルク城教会の扉に張り出したのです。すると彼の予想外の出来事が急展開し始めたのです。
なんと異端者として幾度も審問を受けることになり、提題を張り出した4年後には、ウォルムスの国会に喚問されたのです。そこではルターは理路整然と自分の主張の正しさを聖旬を引用しながら立証します。
ローマ1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
また主イエスご自身、繰り返して言われました。
ルカ5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
ルカ7:50 …イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
しかし当時のカトリック教会は、聖書に立脚したルターに耳を貸すどころか、巧妙にルターの弱点を攻撃しました。そのルターの弱点とは、『聖書よりも権威あるとされた“ローマ教皇庁の内部事情”』にルターが疎かったことです。これをもって、聖書研究では並ぶ者がいないルターを激しく執拗に攻撃したのです。
真理を踏みにじろうとする人々を戒める主イエスの言葉が聖書に繰り返し書かれています。
マルコ7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
マタイ23:13 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
この様に主イエスが厳しく戒めたことが宗教改革当時まかり通り、敬虔な民衆は「深き悩みの淵」に閉じ込められていたのです。
7.「み言葉によって、わたしは望みをいだきます」
教皇側の論客たちと、ただ一人で火花散る生命がけの激論を交わした末に、ルターは、あの有名な『私は今ここに立っています。その他どうすることも出来ません。神よ、助けたまえ。アーメン』との言葉を発して絶句します。審問は中断され、彼はウォルムスからヴィッテンベルクに一旦戻ることになりましたが、その帰路の途中、ルターのよき理解者であった主君の計らいによりヴァルトブルグ城にかくまわれました。この様にしてルターは「深き悩みの淵」より助け出され、彼を破門し殺害しようとしたカトリック教会と永久に訣別したのです。
8.「深き悩みの淵より 」讃美歌258番)Aus tiefer Not schrei ich zu Dir 、EKG195(の誕生
ルターは、かくまわれていたヴァルトブルグ城でドイツ語訳新約聖書を完成させ、「信仰による義人は生きる」ことの喜びと確信とがみなぎる讃美歌を次々と世に送り出したのです。その一つが詩篇130篇を歌詞の土台とした讃美歌258番です。
詩篇130:4-8 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。/わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。/わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。/イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。/主はイスラエルを/そのもろもろの不義からあがなわれます。
素晴らしい御言葉です。
神は罪よりも力がある!だから神は罪を赦せるのだ!我らの神の本質は「罪のゆるし」なのだ!
この福音を、ルターは誰もが歌うことを通して神を喜べるようにしたのです。
その讃美歌258番の4節にはこうあります。
わが罪あやまち 限りもなけれど 底いも知られぬ 恵みの御手もて イスラエル人を 救いしみかみは げにわが牧者ぞ。
そこでの「イスラエル人」とは、「信仰によって義とせられた人々」すなわち私たちキリスト者のことです。その私たちの讃美に答えて主イエスは言われます。
ヨハネ10:14-15 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。/それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
結び
今日は、讃美歌「深き悩みの淵より」とルターの生涯に多くの時間を用いましたが、詩篇130編が皆さまの記憶に印象深く刻まれたことと思います。
もしあなたが、どんなにもがいても底知れぬ深みへとぐいぐい引きずり込まれていく絶望的状況にいること気づくなら、「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。/主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください」と神に呼ばわってください。神は助けの手を必ず差し伸べてくださいます。
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