宗教改革500年記念の年の10月、礼拝では宗教改革当時に誕生した讃美歌を歌い、その讃美歌の引照聖句から説教しています。この修養会では、讃美歌346番「輝く明けの明星」の引照聖句黙示録22章12~16節と信仰告白(ウエストミンスター小教理問答)についての学びへと進んで参ります。
1.黙示録22章12~16節
■難解ではある
ヨハネの黙示録は、私たちには難解で、幻想また夢物語のように思われます。
あまりにも現実離れしていて、現代に生きる私たちの問題や悩みに対して、どういう意味があるのか、どんな助けや導きとなるのか、なかなか理解し難いです。
■だが、信ずべきことである
黙示録の内容は、神が、使徒ヨハネに見せたり聞かせたりしたものです。すなわち、イエス・キリストの父であり、キリストを世界につかわし、十字架に渡し、死人の中から廷えらせ、天に引き上げ、イエスが再び来臨されれる時まで、その右に座させた神の言葉です。ですから、
黙示録22:6 …「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。
と言われたのです。「これらの言葉は信ずべきであり、まこと」なのです。
■信ずべきこれらの言葉
実は、難解なのは「信ずべきこれらの言葉」を伝える表現方法なのです。そもそも黙示とは「はっきりとは言わず、暗黙のうちに、神の言葉を示すこと」ですから、私たちが理解して信じるのは元来無理なのです。
「これらの言葉」を伝える表現そのものは、いわば贈答品を包む包装紙のようなものですから、表現に気を取られずに、「これらの言葉」が語る「信ずべき」、「まこと」なるもの、つまり中身にこそ目を向けるのです。
その、信ずべきこと、まことなるものは、主イエスの弟子たちによって述べ伝えられ、初代教会に対する迫害による試鎌や苦難のもとにあった人々の慰めとなり、信仰の励ましとなり、望みの力となったです。
福音の故に迫害を受け、パトモス島に流刑になっていた使徒ヨハネは、初代諸教会の苦難を一時も忘れることが出来ない状況にありました。そうした中で、将来の究極的な創造と歴史の完成の様を見せられ、また約束の言葉を主イエスと御使いたちから聞かされ、大きな励ましを受けました。
それ以来約二千年の間、主イエスは信仰をもって主を待ち望む者すべてに、深い慰めと望みの光を与え、様々な悩み・苦しみ・悲しみに打ち勝たせてくれます。
■わたしは、すぐに来て報いる
ところで、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである」と言われた主イエスは、7節12節で、
22:7 見よ、わたしは、すぐに来る。…
22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
と言われました。この「すぐに」は、人間の時間のはかりや感覚では知られない。それは、神だけがご存知で、この「すぐに」は「突然に」と訳す事も出来るそうです。ですから、今朝の説教のように私たちは目を覚ましていなければならないのです。
ところで、12節の「それぞれのしわざ」の「しわざ」ですが、
ガラテヤ3:2、5 …律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
と書かれている律法の行い、つまり意識的な善い行いのことではなく、福音を聞いて信じたことから自ずと現れる生き様のことです。しかも、この「しわざ」は単数形です。つまり量は問題ではなく、質が重要なのです。その人の能力や経験年数などは全く無関係で、キリストに対する真実さと愛から「しわざ」がなされたかどうかが問われています。
■主イエスについて
しかも、キリストは、忍耐して信仰の堅固さを持ち続ける者たちを決してお忘れになりません。キリストはご自身についてこう証されました。
22:13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
22:16 わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
キリストは証言しておられます。
-主イエスは、初めであり終りであって、ご自分が旧約聖書に預言され、約束された救世主であること。
-全人類、私たちの人生の始めも終りもまた、キリストの御手の中にあること。
-主イエスは、長く暗闇に閉ざされた時代を終わらせ、夜明けをもたらして下さること。
私たちの人生が、暴風に吹き飛ばされたり濁流に押し流される如く感じることも時にはあるでしょう。
しかし私たちは、「初めであり、終りである」キリストの御支配の中にあります。そして神の目的が完成される終りの日に向かって前進しています。
2.讃美歌346「暁の星のいと美しきかな」
以上お話しした黙示録22章と信仰の証を歌うのが讃美歌346「暁の星のいと美しきかな」です。
※Wie schon leuchet der Morgenstern (EKG48)/詩・曲:フィリップ ニコライ(1599)
今朝の説教の中でお話ししたフィリップ・ニコライが牧師であった当時、ヨーロッパに蔓延したペストの恐怖に怯える人々の信仰を守り希望に生かし励ます為に、彼が作詞作曲しました。
3.信仰告白の大切さ
讃美歌に人々を慰め励まし支える力があるのは、そこで聖書に基づいた信仰が、主イエスへの信頼が歌われているからです。私たちを生かす真の信仰の土台は主イエス・キリストです。規範は聖書です。
最後に、最も大切なことをお話しして講演を締めくくります。
それは、「信仰告白されたキリスト」であり「信じ受け容れられ、告白された聖書」だと言うことです。
マタイ16:15-16 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。/シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
ローマ10:9-10 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。/なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
ですから、私たちがどのようにキリストを告白するか、私たちが聖書をどのように読み信じ受け容れて信仰を告白するか」は決定的に重要なのです。
この後「ウェストミンスター小教理問答」の概要をご一緒に学んで参りましょう。
◎歌詞、曲の参考サイト
https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa346.html
◎コラールに関する参考文献
『コラールのあゆんだ道 ルターからバッハへの二百年』 長與惠美子、東京音楽社、1987年
『コラールの故郷をたずねて』 小栗献、日本基督教団出版局、2007年
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