
■1.8-12節 「救いの訪れという出来事」
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
「今日」とは、御使いたちによる告知当日のことですが、この箇所だけでなく聖書ではもう一つの意味でしばしば使われます。
それは、「私たちの日常の時間の流れから飛び出た特別な時、神が働かれる特別な時」のことです。
ですから、御使いたちは、神が働かれて起きた特別な出来事を告げ知らせたのですね。
ところで、御使いたちは「この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」と言いましたが、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言われただけで、それ以上具体的な説明は何一つありません。
私たちならば、それから何がどうなっていくのかと言ったプロセスを理路整然と説明して欲しいところです。
しかし、その生まれた赤子を普通の人間と決定的に区別出来る特別な証拠「しるし」を与えてくれました。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
確かに、生まれたばかりの赤子を飼い葉桶に寝かせることなどありえません。つまり、「今はこのしるしで十分。あとは、このみどりごを注意深く見ていれば自ずと判る」と言うわけです。
■2.御使いと天の軍勢の賛美 2:13-14
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
この光景は、イザヤ9章や黙示録19章と、また前回の「生けるものすべて」(2021/12/9)でご紹介した第三節のY.M姉私訳、
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天のみ国の、次々と連なる軍勢、その絶えざる流れは、主の進まれる道上にある。
み国の終わりなき時から来たれる、光の内で、唯一の、み光が下られるにつれ、
地獄の力は失せていく。暗きものが、かき消されて行くと共に。
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について、「これは御言葉への信仰告白です」とお話ししたことも思い出していただけたことでしょう。
では、その様な光景がここに記されているのは、いったい何の為でしょう、一種の演出効果狙いでしょうか?
いいえ、ここではっきり言えるのは、「神は、まさに今、人類にとってとてつもなく素晴らしいことを為された」、旧約聖書で預言され続けて来た救い主がついにこの世に遣わされた。神の救いの御業が具体的に始まった、と言うことです。
・私たちの思いと神の御心の違い
ところで、この様なことがその後2000年以上も起きないのはどうしてだろうと思いませんか。こんな出来事が起きれば、私たち信仰者の励みになりますし、伝道も著しく進展することでしょう…。
その答えは、ゲッセマネの園で、剣で大祭司のしもべの耳を切り落したペテロをイエスが諌めた時の言葉から判ります。マタイ26:53です。
マタイ26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
主イエス言葉の意味はこうです。「武力で解決しようとするなら、あなたたちの力を借りるまでもない。天の父は御使いの大軍団を遣わしてくれます。しかし、武力に訴えれば神の計画を台無しにしてしまう」ことです。
私たちの日常で「御使いたちと天の軍勢が現れる」様なことが無いのはこれと同様、神は「十字架のことば…宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされた」(Ⅰコリント1:17-21)からです。
しかし終わりの日には、私たちは主イエスと御使いたち、天の軍勢を見ることになります(マタイ 24:30-31)。
■3.救いの訪れ(レーマ)への応答 2:15-19
15節に進みます。
2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
15節の「出来事」と訳されたギリシャ語は、〝語られた言葉″、〝既に起きた出来事″と言う意味を持つ〈レーマ〉です。
つまり、羊飼いたちが見届けたのは、御使いにより〝語られた言葉″、〝既に起きた出来事″で、これを人々に伝えたのです。ところが、日本語訳では判りにくいですが、二通りの反応があったと記されています。
(1)ベツレヘムの人々
その第一は、
2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
聞いた人たちが驚いた「羊飼いたちが話したこと」の「こと」は〈レーマ〉ではありません。
つまり、「羊飼いたちが話したこと」に驚いて終わってしまい、〝語られた言葉″、〝既に起きた出来事″について深く知ろうとはしなかったのです。これは、まことに残念なことですが、クリスマスの出来事を聖書から聞く人々の現実ですね。
(2)マリア
その一方、マリアはどうだったかと言うと、
2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
マリアは一連の〈レーマ〉を心の中に大事に納め、〈レーマ〉を理解できる時を信じて待ったのです。
■4.「救いの訪れ」の中心的メッセージは「大きな喜び」
かなり前のことですが、教会学校の子どもたちに「クリスマスを今でも世界中でお祝いするのは、イエス様が今も生きておられるからだよ」と話しましたが、肝心要の〈レーマ〉、〝語られた言葉″、〝既に起きた出来事″を伝えていなかった、「大きな喜び」をきちんと伝えていなかった、そのことを今でも悔いています。
それでは〈レーマ〉が指し示す「大きな喜び」とは具体的になんでしょうか?
これを僅か一行で、私たちのこととして教えてくれる聖句があります
ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
標語聖句や励ましのお便り等で頻繁に使われますが、かつての私の本音は、お恥ずかしながら「え~っ!?そんなこと出来るわけ無いじゃないか!」でした。皆さまは如何でしょう。
喜べないことは山ほどありませんか、自分のことばかりか家族や友人のことでも。不慮の事故、人間関係のもつれ、仕事上の困難、入院闘病生活や楽観できない病、将来の見通し...。
では、喜べず悩むのは罪なのでしょうか?
イエス様は、ラザロの死を悲しまれ、ゲッセマネでの祈りでは悩み悲しみ悶えられ、そして十字架上で死なれました。しかし、イエス様が苦悩されたことが罪であるなら、墓に葬られて3日目によみがえらされることは無かったです。
パウロも、福音を伝えたが為にむちで打たれ、石で打たれました。何度も旅の途上難儀に会い、たびたび眠れぬ夜を過ごし、飢え渇き寒さの中に裸でいたことも死に直面したこともたびたび(Ⅱコリント11章)だったとパウロは苦悩を吐露しました。しかし、その彼が繰り返し繰り返し「喜びなさい」と命令形で私たちを励ましています。
私たちが見落としてはならないのは、いつも「主にあって」喜びなさいと言うことです。ただ「いつも喜べ!悩むな!」ではなく、あなたは「いつ如何なる時も喜んでいられるキリストとの関係に入れられている」ことです。
ローマ8:31-32 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。/私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
十字架に一人子をつけるほど神は貴方のことを思っておられます。一番大切な御子をすら惜しまなかったお方が私たちに喜びを与えて下さらないはずがありません。ですから、
ローマ8:38-39 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、/高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
しかも、主イエスはこう言って下さった。
ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。…
クリスマスの中心的メッセージは、あなたが「いつも喜べる」ようになる神との関係性が、天から一方的神の御業によって、貴方のために天から与えられた、と言うことです。
■5.結びの奨励
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
この羊飼いたちの賛美は、御使いにより〝語られた言葉″、〝既に起きた出来事″〈レーマ〉への信仰告白です。彼らの賛美の声は宇宙的な広がりを持ってユダヤの地に響き渡りました。
さあ、私たちも〝語られた言葉″、〝既に起きた出来事″への信仰と感謝をもって神をあがめ賛美しつつ新しい年と御国に向かって進んで参りましょう。