岡本先生と共に味わう讃美の力(4)「生けるものすべて Let all mortal flesh keep silent」(シンシナティ日本語教会)
見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。/その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。/これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。日本聖書協会『口語訳聖書』エレミア書 31章31-33節
1.はじめに
クリスマスを凡そ二週間後に控えた今日、讃美歌「生けるものすべて Let all mortal flesh keep silent」と聖書(新改訳2017)から、神のみ子がこの世にきてくださったその意味と、私たちの神の素晴らしさをご一緒に味わい、喜びを分かち合いましょう。
皆さまのお手元の事前配布資料に英語歌詞の私訳が含まれていますが、歌詞を翻訳して下さった二人の姉妹に心から感謝申し上げます。
2.この讃美歌のルーツは聖餐式
2.1 主イエスが制定して下さった
この讃美歌は専らクリスマスに歌われますが、元々は今日の聖餐式にあたる儀式においてギリシャ語で歌われた世界最古の讃美歌の一つです。
この聖餐式は、最後の晩餐の席上主イエス御自身によって制定された礼典で、世の終りまで守るべき二つの礼典の一つです。その時、主イエスは言われました。
ルカ22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
マタイ26:27-28 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。/ これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
この御言葉は、預言者エレミヤによる預言が成就したことの宣言です。エレミヤはこう預言しました。
エレミヤ31:31-33 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。/その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。/これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
このように、聖餐は神の救いの御業が進展していることの確かなしるしですが、主イエスは栄光の御国を見通す勝利のパノラマをも示して下さりました。
マタイ26:29 …今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」
主イエスは、自ら至上の“いけにえ”となって十字架に掛かることと、三日目の復活、昇天、そして再臨により完成する栄光の御国を見通した勝利宣言をもって聖餐を制定して下さりました。ですから、聖餐は天の御国での祝宴の前味なのです。
2.2 聖餐の歴史
また、聖書は聖餐についてこう記します。
Ⅰコリント11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
このように聖餐は「キリストの死」と題した説教であり、「見えるみことば」による「沈黙せる宣教」なのです。この聖餐は200年にも及ぶ激しい迫害下、地下墓所(カタコンベ)でも守られ続けました。
4世紀にはいると組織的迫害は沈静化してキリスト教が公認(313年)されますが、今度は福音の根幹を揺るがす異端との戦いが熾烈になりました。そこで325年にはキリスト教会最初の総会議であるニカイア会議が開かれ、全世界のキリスト教会が基本信条とする三つの信条のひとつ、ニカイア信条が告白され、380年にはローマ帝国の国教と定められました。
そして当時を記す歴史資料の中に、「聖ヤコブの典礼」と呼ばれる儀式の聖餐式で、この讃美歌が歌われたとの記録が残っているのです。このギリシャ語讃美歌は今もなお東方教会で歌われているそうですが、19世紀に入って英語に翻訳され、20世紀にフランス17世紀の民謡旋律と組み合わされ、さらにアレンジされ今日に至っています。
3.第1節
聖餐式への招き(式辞)
讃美歌の第1節は、聖餐式への招き(式辞)です。
= 第1節(私訳 Y.M) ===
限りあるかたちをもつ生きものすべては黙して、
畏れをもち、おののきつつ、主のみ前に立てる、
地の上の物事に思いを巡らせることもなく。
恵みは、主のみ手のうちにある故に。
神なるキリストが地上に降り給うた。
ただ敬うべきことかな。
= 第1節(私訳 M.M) ===
すべての生けるもの、
死すべき定めにある肉体を持つ者よ、沈黙を守れ
畏れとおののきをもって立て
あなたがたの思いを永遠なるものに向けよ
祝福あるその御手のゆえに
我らの神キリストは地にくだられた、
私たちの礼拝の主として
=============
こんにち聖餐式で用いられている式辞の多くは、「聖餐に与る者は、神の御前に自分自身を吟味し、悔い改めと信仰を表わしましょう」と内省的です。
それに対して一節前半は、「救いをなされる神にしかと心を向け、神を畏れおののき静まりなさい」と告げます。
この招きのことばは旧約聖書を引証聖句としています。
かつて、不信仰に染まったユダの国が大国バビロニアの脅威に曝された時、神は預言者ハバククを用いて民に語られました。
ハバクク2:20 しかし【主】は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。
「全能なる神の権威に服し御前に静まり礼拝せよ、神は裁き行おうとしておられる。だが、救い主なるお方があなた方が救うために遣わされる」と。また、
ゼカリヤ2:13 すべての肉なる者よ、【主】の前で静まれ。主が聖なる御住まいから立ち上がられるからだ。」
〈肉なる者よ〉の「肉」とは人間の弱さ・有限性を強調する言葉ですが、このゼカリヤ書では旧約聖書中最多のメシヤ預言が啓示されています。その預言は、僕として謙られるそのお方のご人格、人々の拒絶に逢い銀貨30枚で裏切られること、十字架に架かり神に打たれること、祭司としての務めを全うすること、そして、全世界の王となり平和と繁栄を確立される、と言った終末まで視野に入った預言、これらがゼカリヤ書に記されています。
繰り返しになりますが、1節前半では、「あなたの目と心を神に向け、御前に静まりなさい」「全能なる神の権威に服し御前に静まり礼拝しよう、神は裁き行おうとしておられる」と聖餐式に与る一人ひとりへの呼びかけが歌われ、続く1節後半では、「その救い主があなたがたを救うために遣わされて来た」と歌います。
4.第2節
2節はイエス・キリストへの信仰告白です。引証聖句をいくつかご紹介します。
ヨハネ1:1-5 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。/この方は、初めに神とともにおられた。/すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。/この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。/光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ1:9-12 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。/この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。/この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。/しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
また、主イエスはご自身についてこう語られました。
ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。…
ヨハネ6:53-58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。/わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。/わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。/わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。/生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。/これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
これらの御言葉に依拠した信仰告白が第二節で歌われます。
= 第2節(私訳 Y.M) ===
王の王、而して、マリアを通し、すでにいにしえに
立っておられたこの地に再び人として生まれられた。
その天の主が今、人の肉体と血のかたちをとられて、
ご自分の存在のすべてを、信じる者どもに、
天のみ国の糧として、与えられるであろう。
= 第2節(私訳 M.M) ===
王の王なる方、しかしこの方はマリアから生まれた
かつて彼は地に来られ、住まわれた
主の主なる方、私たちは今彼を知っている
彼の肉、彼の血によって
彼は信仰者すべてにそれを与える
彼自身を天の糧として
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この2節では、私たちの救いの根幹にかかわる信仰告白が簡潔明瞭に歌われています。この讃美歌を心から賛美できる私たちはなんとさいわいなことでしょう!
また、この様な讃美歌だからこそ、まことのクリスマスを祝い神を誉め讃えるのに相応しいのです。
5.第3節
3節では、闇を滅ぼす光なるキリストの御業が旧約聖書を引証聖句として歌われます。
特に注目すべきは、歴史的にも地理的にもこの世を超越した神の救いの御業を、人間理性で受け入れ易いような表現に言い換えたりせず、ストレートに歌っていることです。
= 第3節(私訳 Y.M) ===
天のみ国の、次々と連なる軍勢、
その絶えざる流れは、主の進まれる道上にある。
み国の終わりなき時から来たれる、
光の内で、唯一の、み光が下られるにつれ、
地獄の力は失せていく。
暗きものが、かき消されて行くと共に。
= 第3節(私訳 M.M) ===
天のいと高き支配者
彼の御前には、彼から流れる出る川がある
天から下ってきた光として
世々に続く、終わる事が無い王国から来られた方
彼は悪の力を打ち破り
地獄の暗やみを一掃する
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引証聖句をいくつかご紹介します。
(1)かつて ~救いの旧約預言
イザヤ9:1-2 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。…/闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
(2)救い主イエス・キリストにおいて旧約預言は成就した
ヨハネ8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
Ⅰヨハネ3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。
(3)やがて ~再臨の主による報いと裁き
黙示録19:11-14 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。/その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。/ その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。/天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
白い馬に乗った方が栄光の主イエスであることは明白で、〈ご自分のほかだれも知らない名が記されていた〉とは、主イエスは人間が完全に表現することも理解することも不可能なお方、神ご自身であることを現します。
初代教会の信徒たちは、このような御言葉を愚直に受け入れ信じたからこそ、迫害の嵐の中で殉教をも恐れず、神を誉め讃えて神の栄光を現し、信仰を全うして天の御国へと雄々しく凱旋していったのです。
6.第4節 神を誉め讃えよ
さて、次の4節に向き合って、皆さまはどの様にお感じになるでしょうか。
= 第4節(私訳 Y.M) ===
主のみ足元に控える六翼の天使、
また寝ずの番の見張りをする四翼の天使、
すべて共に、主のみ前では、顔を覆うが、
絶えることなく、声をはり上げ、
ハレルヤ!ハレルヤ!
いと高きところの主を称えよ、と叫び続ける。
= 第4節(私訳 M.M) ===
彼の足元には六つの翼のセラフィムがいる
決して眠らない閉じる事のない目をもつケルビムが
彼の御前で彼らの顔を覆っている。
終わる事のない賛美を彼らは叫ぶ
アレルヤ、アレルヤ
アレルヤ、いと高き主よ
=============
歌詞に登場するセラフィムとケルビムは、イザヤ6章や黙示録4章などに記された超人的天的存在の御使いで、神の栄光を誉め讃える霊的実存です。また、アレルヤとハレルヤは同じ言葉で「神をほめ讃えよ」との意味です。言語によって単語の先頭のH音を発音するかしないかの違いに過ぎません。
ところで、現代のクリスマスでは、世界で最初のクリスマスで羊飼いたちに現れた御使いと神の栄光がどの様に説教されているでしょうか。人間理性を超えた神の権威を嫌うこの世の人々が抵抗なく受け入れ易いようにとの配慮過剰になり、聖書でご自身を明らかにしておられる栄光ある神を矮小化していないでしょうか。
今の困難な時代にあって飢え渇き喘ぎ呻く人々は、どの様な神に望みを託せるでしょうか。全能であり人知を超えた圧倒的な力で御国をもたらして下さる義なる神にこそ、人は自分を委ねることが出来ます。
初代教会の信徒たちは、聖書の言葉に謙って聞き、聖餐式でこの讃美歌を歌い、日常の生活では主を証ししました。私たちも、聖書が示すありのままの神を証しできる特権を授かっています。この世の人々の機嫌を損ねることを過剰に恐れてはなりません。
では、4節の引証聖句から、聖書が証する霊的現実と神の栄光を見て参りましょう。
イザヤ6:1-3 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、/セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、/互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」
イザヤが見せられたまぼろしは、栄光と威厳に満ちた聖なる神の臨在です。そして、イザヤが聞いたのは、徹底的に聖である神の栄光が全地に満ちわたるとの大きく響くセラフィムの叫ぶ声です。
2つの翼で顔を覆い、2つの翼で両足を覆うことは、神の栄光の前における自らのへりくだりを意味し、2つの翼で飛ぶことは神の御旨に従う従順さを象徴すると考えられています。
また黙示録には、使徒ヨハネが、万物の創造者であり支配者である方のおられる天を見せられた時のことが記されています。
黙示録4:1 その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」
黙示録4:6-8 御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。/中略/この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」
ここに描かれている「四つの生き物」は、イザヤが見たセラフィムと同様、天で絶えず神を讃美し神に仕えている御使いです。
これらの生き物の〈前もうしろも目で満ち〉ているとあるのは、彼らが創造主の知恵を知り、その知恵に相応しく被造物が生きるように見守ることを表現しているとも解釈されてます。
7.結びの奨励
最後に、クリスマスを預言した聖句を引用して結びの奨励とさせていただきます。
ミカ5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
私たちのJCCCでは、祈祷課題として沢山の祈りを信徒間で共有しています。その中には、「(ベツレヘム・エフラテの如き)この小さな群れにも牧者を与えて下さい、一同に会して聖餐の恵みに与らせてください」との祈りがあります。
神は御心のままに御業を成し遂げてくださいます。神は主イエスと弟子たちの小さな群れからも神の栄光を現して下さったように、JCCCという小さな群れにも、神は私たちをも用いて栄光を現して下さります。
さあ、この讃美歌の招きに応答し、自分の思いを捨てて、神の御前に静まり黙して立とうではありませんか。
そして神を仰ぎ、主イエス・キリストに思いを馳せ、神を讃美しようではありませんか。
【参考URL】
https://en.wikipedia.org/wiki/Let_all_mortal_flesh_keep_silence
https://www.hymnologyarchive.com/let-all-mortal-flesh-keep-silence
聖ヤコブの典礼
https://en.wikipedia.org/wiki/Liturgy_of_Saint_James
ニカイア信条(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ニカイア信条#日本語訳
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