私たちの助けは主の御名にある

私たちの助けは主の御名にある

<都上りの歌。ダビデによる。>
124:1 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。」さあイスラエルは言え。
124:2 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら人々が敵対してきたとき
124:3 そのとき彼らは私たちを生きたまま丸吞みにしていたであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき
124:4 そのとき大水は私たちを押し流し濁流は私たちを越えて行ったであろう。
124:5 そのとき荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
124:6 ほむべきかな【主】。主は私たちを彼らの歯の餌食にされなかった。
124:7 鳥のように私たちのたましいは仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ私たちは助け出された。
124:8 私たちの助けは天地を造られた【主】の御名にある。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 124編1-8節


☆礼拝当日の録画はこちら【↓】です。
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1.プロローグ
聖書は不思議な書物です。
たとえば、今日の詩篇124篇は、日本が未だ縄文時代だった頃の中東で書かれたにも関わらず、今日、この礼拝に集う私たち一人ひとりに慰め、励まし、希望を与えてくれます。
そして、詩篇124篇が私自身の、あなたの言葉にすらなるのです。

2.旧約詩篇記者が語ったこと

表題 都上りの歌。ダビデによる。

表題に名前が挙がっているダビデは、聖書に生涯が生々しく記されおり、信仰者にとってとても身近な存在です。

もしも【主】が私たちの味方でなかったなら
124:1 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。」さあイスラエルは言え。
124:2 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら人々が敵対してきたとき
124:3 そのとき彼らは私たちを生きたまま丸吞みにしていたであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき
124:4 そのとき大水は私たちを押し流し濁流は私たちを越えて行ったであろう。
124:5 そのとき荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」

〈もしも【主】が…でなかったなら〉(1,2)と繰り返され、主に助けられたのは一度ならず度々であったことが伺えます。
また、敵対してきた〈人々〉とは具体的に何を指すのかは書かれていません。ただその勢いは、人間が抗え得ない大自然の猛威に喩えられています。

それらが具体的にどの様なことだったか興味深いですが、もしダビデ以前の出来事を回想しているのなら、出エジプト道中の事だったでしょう。

・紅海にさしかかったとき、エジプトの軍勢が迫ってきて、行軍音が響き渡り砂煙が立ち上がったとき(出14:10ff)
・シンの荒野で、飢えた全会衆がモーセとアロンに向かって不平を言った(パン、出16:3ff)
・メリバの泉ではかわきのために、モーセを石で打ち殺そうとした(飲み水、出17:4ff)
・神の民のリーダーモーセに率いられて荒野を旅する道中のアマレク人との戦い(出17:8ff)、
・モーセに対する“反乱”が起きた時、“反乱分子”だけが生きたまま丸吞みに(民数記16:1ff)

この様な時々のことを、
「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。」
と思い巡らしたのでしょう。
旧約時代の信仰者たちは出エジプト道中の事を思い出しては勇気と希望を与えられ、同時に不信仰な民の滅びによって戒めを受けました。

また、 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら」と回顧された出来事がダビデ自身が体験した事なら、
・サウル王や実の子アブサロムの協力者や彼らの軍勢の追跡・包囲といった数多の困難や、
・王国確立に至るまでの神の民の宿敵ペリシテ人との戦い、
・バテシバとの不義を隠蔽しようとしたこと

こういったことから
「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。」
とダビデは自分の人生を振り返ったことでしょう。

124篇以外の詩篇でも、
「もしも【主】が私の助けでなかったなら私のたましいはただちに沈黙のうちにとどまったでしょう」(詩94:17)。

「もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったらそれなら私は私の苦しみの中で滅んだでしょう。(詩119:92)。
と繰り返し繰り返し回顧されています。

次の6-7節に進みますと、詩篇記者は「だが私たちは...であった」と証しています。
124:6 ほむべきかな【主】。主は私たちを彼らの歯の餌食にされなかった。
124:7 鳥のように私たちのたましいは仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ私たちは助け出された。
〈彼らの歯の餌食にされなかった〉とは、
・「敵の手に渡されなかった」ことだけではなく、
・「不信仰ゆえ敵に渡されて滅びるしかなかった私たちであったにも関わらず、神は助け出して下さった」
との感謝も言い表しています。

124篇最後の8節、
124:8 私たちの助けは天地を造られた【主】の御名にある。

〈【主】の御名〉の〈御名〉とは、「神の性質・人格」「神ご自身」のことで、詩篇記者は〈私たちの助けは、全面的に神に依拠している〉と言明して一旦詩篇を締め括っています。

繰り返しますが、詩篇記者は一旦締め括って、私たちの心を《神の御業の歴史》へと向けさせます。

と言いますのは、7節にある「敵によって仕掛けられた罠」とは何でしょうか。
また、「無力な小鳥は、誰かが大きな力で罠を破り壊してくれたので、巧みな猟人の罠から救い出された」とも言っていますが、誰が何をしてくれたと言っているのでしょうか?

聖書に記された人類の歴史を俯瞰すると、それらが見えてきます。
・「敵によって仕掛けられた罠」とは蛇(サタン)がアダムとエバに仕掛けた罠、全人類が罪と死の支配に陥った出来事です
・「無力な小鳥は、誰かが大きな力で罠を破り壊してくれたので、巧みな猟人の罠から救い出された」出来事は、イエス・キリストによる贖いの御業
を指し示していないでしょうか。


3.主イエスによって明らかにされたこと
突然ですが、ちょっと難しい用語を申し上げます。
皆さまは「三位一体」とか「二性一人格」という言葉を耳にしたことがあると思います。
三位一体とは、(父と子と聖霊なる神の同質性)を言い、二性一人格とは(主イエスが真の神であり人間でもある)と言う教理です。平たく言えば聖書に記されている真理についての教えで、全世界の正統的キリスト教会は全て信仰告白しています。
この教理を念頭に置いてこの詩篇を読んでみましょう。
・〈私たち〉を「イエスご自身」に、
・【主】を三位一体の第一人格「父なる神」に、
置き換えて読むのです。

如何でしょう。

するとこの詩篇は、主イエスが地上の御生涯で受けられた苦難と栄光そのものを歌っていることに気付くことでしょう。つまり、
(1)この詩篇は主イエスをズバリ指し示している、預言しており、主イエスにおいて実現したのです。
(2)この詩篇に書かれている苦難も栄光も、主イエスに実現したからには、主イエスに従って生きる私たちにも実現しています。それゆえ私たちも
124:8 私たちの助けは天地を造られた【主】の御名にある。
と主を誉め讃えるのです。

ところで、主イエスは十字架にお掛かりになる直前にこう言われました。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26 )

この言葉は、
124:8 私たちの助けは天地を造られた【主】の御名にある。
このことが私たちに実現することの予告とも言えます。
詩篇124篇の御言葉が真実であることを思い起こさせ、かつ。
来週はペンテコステ礼拝ですが、このペンテコステにおいて聖霊なる神・助け主が私たちに与えられたことで、詩篇124篇が私たちの現実になったのです。

ローマ8:31-37には次の様に書かれています、お聞き下さい。

ローマ8:31-37
8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

旧約の人々はたえず出エジプトにおける奇跡を思い出しては勇気と希望を与えられました。
新約の時代を生きる私たちは、旧約時代の神の御業に加えて、イエス・キリストの地上の御生涯、十字架と復活、昇天の事実を知っています。
すなわち、イエス・キリストにある私たちへの助けは、地上に於いて困難がある時の助けに留まらず、罪と死の支配からの助け、永遠の滅びからの助けなのです。

たとい私たちがどんなに打ち萎れる様な状態にあっても、なおそこに希望が湧き溢れます。


3.現代に生きる私たちへのメッセージ
主イエスは、

124:8 私たちの助けは天地を造られた【主】の御名にある。

ことを門に喩えてこう言われました。

ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

またパウロは言いました。

Ⅰコリント15:17-20
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。


4.結びの奨励
最後に、ひとつお勧めしたいことがあります。
今日の詩篇記者と同様、私たちの過去の事実と反対のことを想像してみませんか。

「もしあの時、神が私たちの味方でなかったら、自分はどうなっていただろうか。」
「もしあの時、神が私に目を留め、私と出会ってくださらなかったら、自分の人生はどうなっていただろうか。」

この様に黙想してみるのです。
先週木曜日の「讃美の力」集会では、讃美歌「いのちの泉に」の作詞者ロビンソンが、「もし、冷やかしに行った教会で主イエスに出会っていなければ、彼はどうなっていただろうか」と言う趣旨のことをお話しました。

もし彼が主イエスに捉えられなかったなら、彼は燃え立つ様な喜びと感激を味わうこと無く空しい人生を彷徨ったことでしょうし、あの讃美歌は生まれて来ず、多くの人々に希望と慰めが届くこともなかったでしょう。

私たちも、〈もしも【主】が…でなかったなら〉と問い、〈そのとき…だったであろう〉と思い返してみましょう。
もちろんこの〈もしも〉は一回きりではないですね。私たちは、その都度、聖書の御言葉を通して働く聖霊に助け導かれ、神ご自身と出会い、いのちの水を飲み、命のパンを食し、新たな力を与えられて今日に至っているわけです。

私たちも、〈もしも【主】が…でなかったなら〉と問い、〈そのとき…だったであろう〉と思い返してみましょう。
そうする時、詩篇124篇は、文字に記された詩篇記者の言葉に留まらず、私の言葉と讃美になります。
そして、主イエスが、
ヨハネ7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
言われた通り、私自身の証・讃美となって、生ける水の川となって口から出ていきます。
なんと私たちは幸いなことでしょう。


祈り
今日も、そして永久に私の味方、助け主でいてくださる神様。私が「わが魂よ、もしもあの時【主】が味方でなかったなら自分はどうなっただろうか」と問うとき、かつて私に与えて下さったあなたの御言葉を、御業を、導きを思い起こさせて下さい。そして、

124:8 私たちの助けは天地を造られた【主】の御名にある。
との、自分自身についての証しで満ちていることに気付かさ、、あなたの御名を誉め讃えさせて下さい。
主イエスの御名によって、アーメン

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2023年 メッセージ一覧

愛のささげ物 ~ナルドの壺

要約

私たちの助けは主の御名にある

聖書は不思議な書物です。たとえば、今日の詩篇124篇は、日本が未だ縄文時代だった頃の中東で書かれたにも関わらず、今日、この礼拝に集う私たち一人ひとりに慰め、励まし、希望を与えてくれます。そして、詩篇124篇が私自身の、あなたの言葉にすらなるのです。

新しい歌を歌おう

新年をこうして皆さまと共に迎えられますこと、感謝です。心を新たに抱負を抱き新年をお迎えの事でしょうが、年を重ねるとは老いる事なので、手放しでは喜べない一面がありますね。でも聖書は、私たちの老いは希望の歩みですよ、と励ましてくれます。