愛のささげ物 ~ナルドの壺

愛のささげ物 ~ナルドの壺

14:3 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
14:8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
14:9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」日本聖書協会『口語訳聖書』マルコによる福音書 14章3~9節

はじめに

今日の聖書に記されている出来事は、オリーブ山の麓にあった村、ベタニアが舞台になっています。
そこから3キロ程離れたエルサレムでは、「過越の祭り」を数日後に控え、ささげ物を携えて国の内外からやって来たユダヤ人たちでごった返し、祭りの準備に大わらわ、パリサイ人や律法学者たちは主イエスを亡き者とすべく謀議を凝らしていました。
この「過越の祭り」とは、エジプトでの奴隷からの解放、約束の地での定住、そして契約の神の忠実さに感謝し、羊の犠牲をささげる重要な儀式でしたが、まさにこの時主イエスはご自身を、愛のささげ物として捧げようとしておられました。そのことを察した一人の女性が、やはり愛のささげ物としてナルドの香油を主イエスに注いだ、そのことが今日の聖書に記されています。

ヨハネ福音書には 「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)と記されていますが、8月の「讃美の力集会」で取り上げた讃美歌『ナルドの壺ならねど』 (Love's Offering )で
  〈愛の香は、犠牲よりも芳しく香り昇ります(Yet may love's incense rise, sweeter than sacrifice,)〉
と歌ったことは私たちの記憶に新しいです。

また、主イエスは言われました。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」 (マタイ12:7)と。
これは、ホセア6:6「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」の引用ですが、この主イエスの御姿を彷彿とさせるのか今日の聖書です。

1.私たちは、なぜささげ物をするか?

私たちは、なぜささげ物をするのでしょうか?

「ささげ物」は殆どの宗教的儀式に見られますが、神との良き関係を獲得維持する為の「神への贈物」です。
聖書に於ける神へのささげ物の記録は、人類が罪と死の支配に陥った直後にまで遡ります。創世記4章にアダムとエバの子、カインとアベルによる人類最初のささげ物が記されてますが、この時すでに神が喜ばれるささげ物と、形だけのささげ物が捧げられていました。
しかし、神へのささげ物が神の制定によるのか,人間の自然な宗教的本能から起ったものかは何も記されておらず興味が湧くところです。
そこで、聖書的なささげ物の起源を聖書に探しますと、ヘブル11:4に次の様に書かれています。

 _†_ (ヘブル11:4)
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。
 _†_†_†_

アベルのささげ物は彼の信仰のゆえに神に受け入れられたことから、「神へのささげ物」は明らかに神の意思だと判ります。
さらに、律法の書レビ記に書かれている「神へのささげ物」に関する詳細な規定を概観しますと、

①いけにえ、すなわち動物のささげ物を通して礼拝者は、罪の贖いと赦し、罪のきよめを受けて初めて聖なる神に近づける(レビ4:15、20)
②いけにえの動物は礼拝者の身代りである(レビ16:20-22)

とあります。主イエスの十字架が見えて来ませんか。
父なる神が、御子イエスを十字架上で贖いのささげ物とすることで、礼拝者の「罪を贖い赦し、罪のきよめを与え」、礼拝者が「聖なる神に近づくことが出来る様にする」目的を成し遂げられたのです。
また、神は人にささげ物を命じるだけでなく、神ご自身が最上のささげ物をされたのです。
これが十字架の出来事の意味です。私たちの神はこの様なお方です。

ですから、主イエスが「…大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:38)出来事は、神と人とを遮っていた「罪」という障害が取り除かれたことを現しています。
主イエスの十字架は、私たちが「大胆に恵みの御座に近づ」(ヘブル4:16)ける為のささげ物です。
ですから私たちは主イエスの十字架を誇る(ガラテヤ6:14)のです。

これから解き明かします聖書箇所は、神と人類への最上の愛のささげ物となられた主イエスに相応しく、最上のささげ物ナルドの香油で主イエスを整えた出来事です。

2.ある女性による愛のささげ物 ~ナルドの香油

_†_ (マルコ14:3)

14:3 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
 _†_†_†_

〈非常に高価な〉 5節に三百デナリとありますが、当時の一般的労働者の年収に相当。

〈ナルド油〉 ナルド香油の香りは、簡単に消えないそうですので、主イエスの十字架上でもこの香りがしたことでしょう。ナルド香油は既に古典的香料の一つとなっていて、簡単に入手できないそうです。

〈ある女の人〉 香油を注いだのは誰でしょう?……この女性はマグダラのマリヤだとする伝承はありますが、実は新約聖書の記述からは特定できないのです。とは言え推論(あくまでも推論です)は可能です。
ルカ8:1-3には次の様に記されています。

 _†_ (ルカ8:2-3)
ルカ8:2 また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、
8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。
 _†_†_†_

この主イエスと弟子たちに仕えたマグダラのマリアが、〈イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき〉(マルコ14:3)も一緒に居合わせたと考えるのは不自然ではありません。また、この油注ぎ直後の十字架と復活の出来事からマグダラのマリアが頻出することからも、この女性はマグダラのマリアと推測は可能です、断定は出来ませんが。

〈壺を割り〉 愛は惜しみなく
この女がイエスの頭にかけた非常に高価な香油は数滴ではなかった。彼女は壺を割って、中身を全部イエスに注いだのです。
しかし、全部を捧げなければ、と言うことでは決してありません。大事なのは“額や量”ではありません。

 _†_ (Ⅱコリント13:3)
13:3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
 _†_†_†_

霊感商法やえせ宗教団体は、御利益は金額相応だと言うようです。残念なことに、キリスト教も高額な寄進を煽った歴史があります。また現代でも月約献金・礼拝献金について誤解されることもあります。

_†_ (マルコ14:4-5)

14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
 _†_†_†_

彼女の行為は、周囲の非難をかったのです。それは〈無駄〉だと。〈貧しい人たちに施しができた〉 と。
傍から見れば、その大胆さがある種の浪費、〈無駄〉に思えたのでしょう。

_†_ (マルコ14:6)

14:6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
 _†_†_†_

〈良いこと〉、すなわち「目的に適って美しく優れている」とイエスは言われた。

イエスからは〈良いこと〉と評せられた行為がある弟子たちからは 〈無駄〉 と評せられた。この違いはなぜか?
イエスは、その女性の心をご覧になり、ある弟子たちは自分たちの腹の中の思いを吐露したのでしょう。

弟子たちは、伝道旅行中屡々地位争いをしていたようです(ルカ9:46)。主イエスの十字架を目前にしても(ルカ22:24 )です。
それとは対照的に、真に主イエスに仕えていれば、当然主イエスの説教を真っ直ぐ聞いていたことでしょう。主イエスは、一貫してエルサレムで贖いの死を成し遂げることを言われました。

 _†_ (マルコ10:45)
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
 _†_†_†_

エルサレムに向かう主イエスが何度か話されたこの様な言葉をこの女性は心に刻みつけていて、とうとう主イエスが予告しておられた時が来たことを彼女は感じ取ったのではないでしょうか。
そのことを主イエスが言われました。 「この人は…わたしを埋葬する備えをしてくれた」(マタイ26:12)のです。
また、いくら何でもこの女性は、自分の為に死んで下さると言うことまでは気付いていなかったろうという懐疑的な見方もあるでしょう。しかし、マルコ10:45の 〈多くの人のための贖いの代価〉 すなわち「私のための贖いの代価」と聞いていたことでしょう。私たちは「多くの人」ではなく「私の」と聞くことが大切なのです。

_†_ (マルコ14:7-8)

14:7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
14:8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
 _†_†_†_

7節前半の 〈貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます〉 は申命記15:2の引用です。
「霊的肉体的に弱さを覚える人々は、いつもあなたと一緒にいますよ」と気付かせて下さると同時に 〈しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません〉、私イエスに愛の業を直接行えるチャンスは無くなろうとしてますよ、と言われたのです。

〈自分にできること〉
この女性は、今しなければ二度と出来ないと気付き、自分がこの時〈できること〉の限りを尽してイエスに対する愛を余す所なく示したのです。

3.愛のささげ物を妨げるもの

で、前回の「讃美の力集会」で少しお話ししたことですが、
「私は、いつ、何を、誰に、どうしたらいいのだろうか。自分のことだけでも精一杯なのに。」
「したとしても本当に役立つのだろうか、相手にどう思われるだろうか、無駄にならないだろうか。」
と言った心に引っかかるものを私自身長い間持っていました。
そして、何かしようと心を動かされながらも「結局何もしなかった…」と後悔臍を噛む(こうかいほぞをかむ)思いを何度も繰り返しました。
こう言った事は、日常的で些細な事でも起きました。例えば、「あの人に感謝を、お礼を伝えたい」、「あの方の役に立ちたい」、そういう思いが生まれて来ても、あれこれ思案しているうちに時期を失してしまったことです。

しかし、私の葛藤に対する答えは、8月の「讃美の力集会」を準備中に、「ナルドの香油注ぎ」の出来事が記されたマタイ26章の直前25章の三つの譬えを通して与えられたことは、集会でお話しした通りです。

要するに、「神はあなたに賜物を預けて下さっているんだから、いつでもそれを用いて自然体で、あなたも愛の業を行えます。自分の可能性で愛の業を考えなくて大丈夫!」と言うことです。

_†_ (マルコ14:9)

14:9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
 _†_†_†_

この言葉から私たちは御言葉への信頼を鼓舞されます。
主イエスに十字架が迫っていました。しかし、イエスは十字架の先に福音が全世界に行きわたる希望と、愛のささげ物の実例が伝えられることを約束されました。

結びの奨励

ルカ7:37-38に記された 〈一人の罪深い女〉 (注意:マグダラのマリアとは別人です)に関して、主イエスはこう言われました。

 _†_ (ルカ7:47)
7:47 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
 _†_†_†_

主イエスは、「多く愛することが多くの罪を赦される条件です」とは言っておられません。「多くの罪を赦されていることは、多く愛することで判りますから」と言われます。

最後に、主がJCCCにお与え下さっている素晴らしい宝物、愛のささげ物を確認して、この説教を終えます。
JCCCでは、毎週寄せられる祈祷課題が整理されて配信されていますが、この祈祷課題を用いたお祈りも愛のささげ物です。この祈りあうという、天に召されるまでやりとりできる愛のささげ物を大切にして参りたいものです。

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2023年 メッセージ一覧

愛のささげ物 ~ナルドの壺

要約

私たちの助けは主の御名にある

聖書は不思議な書物です。たとえば、今日の詩篇124篇は、日本が未だ縄文時代だった頃の中東で書かれたにも関わらず、今日、この礼拝に集う私たち一人ひとりに慰め、励まし、希望を与えてくれます。そして、詩篇124篇が私自身の、あなたの言葉にすらなるのです。

新しい歌を歌おう

新年をこうして皆さまと共に迎えられますこと、感謝です。心を新たに抱負を抱き新年をお迎えの事でしょうが、年を重ねるとは老いる事なので、手放しでは喜べない一面がありますね。でも聖書は、私たちの老いは希望の歩みですよ、と励ましてくれます。