居場所があるということ (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)

居場所があるということ (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)

11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
11:10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。
(以下、省略)
日本聖書協会『口語訳聖書』ヘブル人への手紙 11章6節~12章2節

はじめに

私たちの日常生活に居心地良い「居場所があるという事」は、とても有り難い事ですが、今日は私たちの人生の先に「キリストの無尽蔵の富」(エペソ3:8、口語訳)を受け継ぐ「居場所があるという事」について、
1.この御言葉がもたらされた歴史的背景
2.未だ果たされぬ約束を待ち望む事が信仰
3.主イエスから目を離さずにいるべきこと
4.結びの奨励
このような順序で聖書を解き明かしてまいります。なお聖書は新改訳2017を用います。

Ⅰ. この御言葉がもたらされた歴史的背景

当時の歴史家が、初代教会の信徒たちの苦難について次の様に記しています。
・家族に信者と未信者がいて対立が起きると、クリスチャンは家庭の破壊者だと非難された。
・「皇帝は主である」と言わなかったために“国賊”扱いされた。
・聖餐式のことばから、彼らは人肉を食らい血を飲む者だと言いふらされた。
・聖書のことばを引いて「終りの日にはこの世界が火で焼かれる」と語ったことから、放火魔に仕立てあげられた。

こうした非難中傷と迫害に満ちた世の中を、聖書は「この世は彼らにふさわしくありませんでした(口語訳:この世は彼らの住む所ではなかった)…」(ヘブル11:38)と記しています。そのような状況下でも信徒たちは信仰の戦いを良く戦い、苦しむ同信の仲間たちを愛をもって助けあいました。
ところが、迫害の長期化と激化に伴い倦み疲れ、彼らに約束された「とこしえの居場所」への望みが揺らぎだし、信仰以前の生活に逆戻りする信徒が出てきたのです。

この様な憂うべき状況は今日も変わりません。御言葉の約束が果たされる“時”を待つことは、今も昔も辛く忍耐を必要とすることに変わりは無いからです。それゆえ御言葉は、あらゆる時代の信徒一人ひとりに「あなたの人生の先には、とこしえの居場所が備わっているよ!」と語りかけ励し続けているのです。

Ⅱ.未だ果たされぬ約束を待ち望む事が信仰

私たちは彼らの様な迫害を受ける事は希でしょうが、世の中や自分自身の現実を見て意気阻喪したり、信仰の足取りが重くなることはしばしばです。
その様な私たちに御言葉は語りかけ励まします。

11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

アブラハムは相当の財産を持っていたようです。その財産で悠々自適の暮らしができたはずの彼にもかかわらず、「相続財産として受け取るべき地に出て行きなさい」(創世記12章)との神の言葉を聞いて〈どこに行くのかを知らずに〉自分の人生を賭して出て行ったのです。これが信仰です。
また、もう一つ福音の根幹を成す言葉があります。アブラハムに約束されたのは〈相続財産〉だと言う事です。信仰に対する褒美とか贈り物ではないのです。アブラハムの立場は相続人だと言う事です。
一般に相続財産とは、被相続人の死去に伴って法律で定められた相続人に受け継がれる財産のことですが、8節の場合、被相続人はいったい誰なんでしょうか。聖書全体の文脈から解釈すると、アブラハムを召し出された神ご自身、受肉前の御子イエスです。御子イエスが持っておられる天的で無尽蔵の富、しかも神であるイエスご自身が死ななければ相続できない財産が約束された訳です。空前絶後の相続の約束です。
ですから、アブラハムが約束された地カナンに移った後も、

11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
11:10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。

となるわけです。
事実、主イエスが贖いの死を遂げられたことで相続事由が発生しました。そして御子イエスは死んで葬られ三日目に蘇らされたことで、相続財産とは、被相続人イエスが持っておられる永遠のいのちと天の御国であることが遂に明らかになったのです。そして聖書は、あなたも相続人だと宣言します。

ガラテヤ3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

アブラハムだけではない、主イエスへの信仰により神の子とされ霊的なアブラハムの子孫、世々のキリスト者が、あなたも相続人なのです。これこそ福音であり、救いと永遠のいのちの根拠です。相続人である私たちの地上の生涯の後には「とこしえの居場所」があるのです。キリストの富は無尽蔵(エペソ3:8、口語訳)ですので、遺産分割協議や調停、場所の取り合いなど起こりえません。
先に進みましょう。

11:11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

アブラハムが約束を信じた時の事が創世記に記されています。

創世記15:4-5 …あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」/そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

常識的には子をもうける能力を失っていた夫婦への約束、あなたの子孫は決して途絶える事無く天空に煌めく無数の星の様になる、との約束でした。
12節以降では、「自分の居場所」を待ち望んだ旧約聖書時代の信仰者たちについて語られます。

11:12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

彼らが〈約束のものを手に入れることはありませんでした〉(13)には非情な響きがしますが、御子イエスが贖いの死を遂げられたことで“相続”が起こり、終わりの日に完了する事を知る私たちなら理解できるのではないでしょうか。むしろ人知を超えた神のご計画に圧倒されます。

11:20-22では、当人の存命中には現実しなかった約束への信仰は、祝福という形で個人の死を乗り越えて継承されたことがしるされています。自分の死期を悟ったイサクはヤコブに主の御心のままに祝福を与え、ヤコブはヨセフや他の子どもたちを祝福しました。そしてヨセフは兄弟と子を祝福しました。

11:39 これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。
11:40 神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。

この2節に言葉を補ってみますと、
-信仰生涯を全うした旧約聖書の信仰者たちは知らされなかったが、アブラハムとダビデの子孫から主イエスが世に遣わされる(マタイ1章参照)神のご計画に参与した。
-彼らが忍耐しつつ待ち望んだものは、贖いの死を遂げる御子イエスからの相続財産であった。
-彼らは、「天の星のように、また海辺の数えきれない砂のよう」なアブラハムの霊的子孫が、終わりの日に「居るべき場所」御国に導き入れられる事で、〈彼らが完全な者とされる〉、すなわち旧約時代の信仰者たちの忍苦が完全に報われる。

こういうことではないでしょうか。主イエスご自身は明言されました。

ヨハネ14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

12章以下では、競技場での競争になぞらえて、この「信仰の完成者イエスを仰ぎ見なさい」と奨励されます。
そして、既に地上を去った有名無名の信仰者たちが大観衆に、信仰者が走者に喩えられています。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

〈多くの証人たち〉とありますが、この証人には二つの意味が可能です。
(1)一つは、私たちの完走とゴールインの目撃証言者
(2)もう一つは、神の約束が真実であることの証しのために一生を捧げ尽くした人
です。英語のmartyr(殉教者)の語源はこのギリシャ語にあります。即ち殉教者たちを殉教者たらしめるのは、英雄的死そのものよりも、その死に至るまで生き続けた「証言者としての生涯」です。その彼らは聖書に記された自分たちの証によって、今、信仰に懸命に生きている私たちを応援してくれているのです。
〈一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて〉は、競走の邪魔物を取り去って身を軽くすることで、理に適ってます。

Ⅲ.主イエスから目を離さないでいなさい

12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

とあります。私たちは、主イエスから目を離さず何を見るのか、三つの事をお話します。
Ⅲ-1 主イエスは私たちの内に居場所を持たれること
Ⅲ-2 主イエスは私たちを「とこしえの居場所」に相応しく整えて下さる
Ⅲ-3 主イエスは、救いの確信を持たせて下さる

Ⅲ-1 主イエスは私たちの内に居場所を持たれること

かつてイエスはこう言われました。

ルカ9:58 …「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

そのイエスはザアカイに声を掛けてこう言われました。

ルカ19:5 …「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

ここの〈泊まる〉とは、ちょっと一泊ではなく、住み着く、住み続けることです。ではどうやって主イエスはザアカイと住み続けるのか? 私たちに直接関係する重大事について、こう書かれています。

Ⅰコリント6:19-20 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。/あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

つまり、聖霊によって、私たちをご自分の居場所とされるのです。そして私たちが肉体を主の御手にお返しすると、主は私たちを「とこしえの居場所」に移して一緒に居て下るので、

マタイ28:20 …見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

この主イエスの御言葉は真実なのです。

では、なぜ、主イエスは私たちの内に居場所を持とうとされるのでしょうか?様々な切り口が可能ですが、今回は「サタンも居場所を探しているから」とお答えします。

Ⅰペテロ5:7-9 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。/身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。/堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

この聖句からは、獣が人を襲うが如き印象を受けますが、私たちに悪を為すのは、サタンが住み着き支配された人間です。イスカリオテのユダの時(ヨハネ13:2)がそうでしたが、主イエスの悪霊追い出しの奇跡の数々からも判ります。

ルカ11:14、20 さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口をきけなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。//しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

また、主イエスが私たちの内に居場所を持ち続けようとされるのは、人の力では悪魔に勝てないからです。この事は讃美歌「神はわがやぐら」を取り上げた集会でお話ししましたが、一つ付け加えますと、

マタイ12:43-45 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、/ 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。/そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」

要は、常にインマヌエル「神が私たちとともにおられる」(マタイ1:23)であってこそ私たちは安全で平安なのです。そして主イエスは毒麦の喩えにより、この悪魔との戦いは完全勝利で終わることを教えて下さりました。

マタイ13:24-30 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。/ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。/麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。/それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』/主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』/しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。/だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」

天の御国が私たちの「とこしえの居場所」になりますが、サタンは「火と硫黄の池」(黙示録20:10)が「とこしえの居場所」になるのです。

Ⅲ-2 主イエスは私たちを「とこしえの居場所」に相応しく整えて下さる

御国の情景がこう記されています。

黙示録7:9-10 その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。/彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」

黙示録7:13-14 すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。/そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

〈白い衣を身にまとった人たち〉とは、とこしえの居場所に入れられた世々の信仰者です。私たちは、そこに相応しく整えられ〈白く〉される為に〈大きな患難〉を通るのです。私たちが困難に会うとき、この事を思い出しましょう。

Ⅲ-3 主イエスは、救いの確信を持たせて下さる

聖書にこう書かれています。

Ⅰコリント12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

聖霊によらねば主を告白できません。ですから「イエスは私の主」と言えるのは、聖霊において主イエスが私を居場所にして下さっていることの証拠です。なんと素晴らしいことでしょうか!

結び

最後に、もう一度12:2の御言葉です。

12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

主イエスは、ご自身が持っておられる無尽蔵の財産を私たちに相続させるため、辱めをものともせずに十字架を忍ばれました。そして今なお主イエスは、私たちがこの世にある間は私たちの内に住まわれ、御心のままに訓練し、私たちが世を去ると「とこしえの居場所」へと導き入れて下さります。そして終わりの日に、義であり愛なる神のご計画が完成し、私たちは世々の聖徒たちと共に天上の大コーラスに加わります。

最後に、この喜びを親の立場にある方に喩えますと、親は子や孫を躾け育て彼らの将来に資するように財産を蓄え、一人前になった子や孫を見届ける時に自分たちの労苦が報われた、頑張った甲斐があったと、大きな大きな喜びに満たされます。
これだけではありません、この喜びは立場を越えて全ての信仰者のものです。なぜなら、今日お話した「居場所があるということ」は、私たちの子や孫ばかりか私たちの“隣人”にも現実となりうるからです。この希望を抱きつつ主イエスを証する信仰生活を全うして参りましょう。

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2022年 メッセージ一覧

居場所があるということ (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)

私たちの日常生活に居心地良い「居場所があるという事」は、とても有り難い事ですが、今日は私たちの人生の先に「キリストの無尽蔵の富」(エペソ3:8、口語訳)を受け継ぐ「居場所があるという事」について、1.この御言葉がもたらされた歴史的背景2.未だ果たされぬ約束を待ち望む事が信仰3.主イエスから目を離さずにいるべきこと4.結びの奨励このような順序で聖書を解き明かしてまいります。

主こそ我らの力の源 (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)

今日は、 Ⅰ.プロローグ ~「聖書全体の俯瞰」 Ⅱ.「士師サムソンの生涯」 Ⅲ.結びのメッセージ 「キリスト者とはどんな存在か」の順にお話します。

新しい賛美を歌おう (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)

黙示録は難解だとよく言われますが、ひとことで言えば艱難の時代にある教会と信徒への励ましです。今日は、「キリストへの礼拝」と呼ばれる5章の御言葉に聞き、・神は,黙示録に示された幻の通り救いの御業を成し遂げてくださること・神は私たちを、幻で示された天上における賛美に与らせてくださることこの希望と救いの確信へと導かれたいと願っています。