今日は、
Ⅰ.プロローグ ~「聖書全体の俯瞰」
Ⅱ.「士師サムソンの生涯」
Ⅲ.結びのメッセージ 「キリスト者とはどんな存在か」
の順にお話します。
Ⅰ.プロローグ ~聖書全体の俯瞰
[1]聖書(の歴史)はゴールを目指す
聖書が歴史上の出来事を記す時、そこには「聖書の著者である神の意思は必ず実現する」との視座に立っています。
つまり、聖書全体としては、天地万物を創造された神は、黙示録に記された新天新地の再創造に向けて歴史を支配し動かしておられることを明確に記しています。
その聖書を私たちが読む時、「聖書に記された歴史の中で、神と神の民との関係がどう変化して来て、今後どうなっていくのか」と言う視点を持つことは大切です。
[2]創世記から黙示録の“狭間”に位置する士師記
今日の聖書箇所、士師記は創世記から数えて七番目に位置していますが、士師記に先行する出エジプト記、ヨシュア記では、一人のリーダーを中心にして神の民が一体となり神の御業に与りながら約束の地に入ってきたことが書かれています。
そして、約束の地に定住する様になると、
士師記2:7 ヨシュアがいた間、また、【主】がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は【主】に仕えた。
2:8 【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
2:9 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・ヘレスに葬った。
2:10 その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、【主】を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。
2:11 すると、イスラエルの子らは【主】の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。
2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、【主】を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、【主】の怒りを引き起こした。
ヨシュアの信仰が次の世代に継承されず、神の民は主の命令に従わず、【主】に拠り頼まなくなったのです。
そして民は、「背信―さばき―叫び―士師による救い」のパターンに陥っていくのです。
①民の背信 : 契約を破って神の民はカナン人と妥協し、偶像礼拝や不道徳に陥る
②神のさばき : 神のさばきが異邦の民による圧迫として下される、
③民の叫び : 神の民の民は神にあわれみを求めて叫ぶ、
④神の憐れみ : 神は士師と呼ばれる政治的宗教的指導者を起し、民を助ける。
しかし士師が死ぬと、民はまた背信に逆戻りしてしまう。ここに、不完全かつ一時的な指導者の限界と、民の悔い改めの不徹底ぶりがハッキリしています。
真剣に神の御旨を求めて従うよりも自分の目に正しいと見えることを行っては困難に遭い、その都度中途半端に悔い改めては直ぐに以前の状態に逆戻りする。このパターンを繰り返すうちに、神の民は堕落と混乱の度を深めていく。この様子を記すのが士師記で、
士師記21:25 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。
と締めくくられます。皆さまはこの終わり方からどの様な印象を受けられるでしょうか。
実は、士師記は、完全かつ永遠のリーダーが与えられる希望を暗示しています。聖書の歴史は、士師記からルツ記、そしてサムエル記へとバトンタッチされていきます。そこではマタイ1:1-6の主イエスの系図に登場するボアズとルツ、そしてダビデが登場してくるのです。
Ⅱ.士師サムソンの生涯
ここまでは、聖書における士師記の位置づけを話してきました。
次に、士師記最後の士師サムソンの生涯に焦点を絞って聖書に聞いて参りましょう。
[1]サムソンの出生と召命(士師)
聖書には母親の誓願によって主から特別な力を与えられて御業に用いられた人々がいますが、サムソンもその一人です。生まれる前からナジル人として神に聖別された人でした。
士師記13:5 見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」
〈神に献げられたナジル人〉は、3つの誓いを守るべきことが神によって定められてました。(民数記6:1-8)
(1)ぶどう酒や強い酒を断ち、ぶどうの実を食べたり、ぶどう汁を飲まない
(2)汚れたもの、特に死体にふれない
(3)髪の毛を切らない
[2]サムソンの活躍と敗北
サムソンは二十年間イスラエルのリーダーとなり、イスラエルの最大の敵ペリシテ人と戦いました。
しかし、彼はナジル人としての召命とリーダーとしての責任を軽んじ、ナジル人としての誓い、すなわち御言葉に背き、自分の強さが主からの賜物であることを忘れ己の力に慢心して罪深い生活を続けました。
ところで、御言葉に背くということを皆さまはどの様にお考えになるでしょうか。
それは、私たちの敵サタンに自分の弱みを曝け出すことだとでもあります。
従って、士師記16章に記されたサムソンは、私たちの反面教師なのです。
16:4 その後、サムソンは、ソレクの谷にいる女を愛した。彼女の名はデリラといった。
16:5 ペリシテ人の領主たちが彼女のところに来て、言った。「サムソンを口説いて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、縛り上げて苦しめることができるかを調べなさい。そうすれば、私たちは一人ひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」
ここに登場する女性の名〈デリラ〉には、「浮気な、恋をもてあそぶ」の意味があります。
サムソンがそのようなデリラに溺れたことに、ペリシテ人は目を付け、デリラを買収してサムソンの強さの源を探り出そうとしました。この企みはサムソンを亡き者とするだけでは終わりません。神の民を支配すること、ひいては唯一真の神に勝利することが究極の目的です。ですから、この時、神の栄光は危機に瀕していたのです。
〈銀千百枚〉とありますが、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダに与えられた銀30枚と比べると、法外な額です。デリラはその金欲しさに、サムソンの力の秘密を探り当てるためにあらゆる手練手管を使いました。
16:6 そこで、デリラはサムソンに言った。「どうか私に教えてください。あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょうか。」
16:7 サムソンは言った。「もし、まだ干していない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになるだろう。」
16:8 そこで、ペリシテ人の領主たちは、干していない七本の新しい弓の弦を彼女のところに持って来たので、彼女はそれでサムソンを縛り上げた。
16:9 彼女は、待ち伏せる者を奥の部屋に置いておき、「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言った。しかし、サムソンはまるで麻の撚り糸が火に触れて切れるように、弓の弦を断ち切った。こうして、彼の力の源は知られなかった。
サムソンは嘘を繰り返して秘密を守ろうとしましたが、デリラに溺れていることがサムソンの弱みとなり、敵はそこを執拗に攻め続けました。いわば戦で城壁の一角が破れると、敵はそこを集中攻撃するのと同じです。
16:15 彼女はサムソンに言った。「あなたの心が私にはないのに、どうして『おまえを愛している』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのか教えてくださいませんでした。」
16:16 こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。
〈死ぬほど辛かった〉なら、逃げればよかった。或いはナジル人の誓いの言葉を守ればデリラに負けなかったのです。イエス様が荒野でサタンの誘惑を受けられた時、御言葉に拠って勝利された様に。
しかしサムソンは、自分を過信し誘惑から逃れようとせず遂にデリラの泣き落しに屈しました。
16:17 ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。」
16:18 デリラは、サムソンが自分の心をすべて明かしたことが分かったので、こう言って、人を遣わし、ペリシテ人の領主たちを呼び寄せた。「今度こそ上って来てください。サムソンは心をすべて私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来たとき、その手に銀を持って来た。
16:19 彼女は膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪の毛七房を剃り落とさせた。彼女は彼を苦しめ始め、彼の力は彼を離れた。
16:20 彼女が「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言ったとき、彼は眠りから覚めて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は、【主】が自分から離れられたことを知らなかった。
20節、〈【主】が自分から離れられた〉、このことは信仰者にとって最悪の状態です。
16:21 ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
この時サムソンは、どの様な思いで牢の中で臼をひいていたのでしょう。
きっとサムソンは、かつて母親が自分に話してくれたことを思い出し思い巡らしていたことでしょう。
・「サムソン、神はあなたは、生まれる前からナジル人として召して下さったのですよ」
・「サムソン、神はあなたを、神の民をペリシテ人から救い出す主の御用に用いて下さりますよ」。
さて、聖書は続きます、22節。
16:22 しかし、サムソンの髪の毛は、剃り落とされてからまた伸び始めた。
これは毛髪が伸びる生理現象や時間経過を現すだけではありません。
サムソンの悔い改めと信仰の回復、主の恵みが象徴的に表現されてます。
毛髪そのものに強さがあった訳ではありません。サムソンは強靱な肉体を持っていましたが、その肉体すら主からの賜物です。
聖書は人間や物質自体に特別な力があるとは言いません。神が用いて神が力を発揮されるのです。
一方、ペリシテ人はサムソンの毛髪を断ち切ったことですっかり安心し、ダゴン神の勝利に酔いしれ、サムソンに起こっていた変化(悔い改め・回心)と、主の絶対的な力については全く無知でした。
[3]敵の一時的勝利を覆された主
士師記16:21までは、愚かで悲惨な失敗の連続でした。サムソンの敗北は、サムソンを士師として用いた主なる神の敗北をも意味します。しかし主は、敵の一時的勝利を覆されます。
ペリシテ人の神ダゴンの祭りの余興のために引き出されたサムソンは、恥辱のどん底で主を呼び求めました。
16:28 サムソンは【主】を呼び求めて言った。「【神】、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」
16:29 サムソンは、神殿を支えている二本の中柱を探り当て、一本に右手を、もう一本に左手を当てて、それで自らを支えた。
16:30 サムソンは、「ペリシテ人と一緒に死のう」と言って、力を込めてそれを押し広げた。すると神殿は、その中にいた領主たちとすべての民の上に落ちた。こうして、サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
サムソンが〈私を強めてください〉と祈った時、【主】はその神殿とペリシテ人を打たれ、【主】こそ真の神であることを示されました。
この出来事は、「神は、歴史を支配し御心に叶った祈りに応えてくださる」ことを証ししていますが、その舞台となった2本柱で天井を支える構造の神殿が実在したことは、考古学で知られています。
サムソンの祈りは状況を一変させました。しかし勘違いしてはいけないことがあります。
祈りは、自分の思い通りに神を動かす手段では無い、ということです。祈りは主のご支配を認めること、自分を超えた主の力に委ねる信仰の表明です。サムソンの祈りは、主との関係を立て直す祈りでした。
その結果、神はサムソンの祈りに応え、彼に再び力を与え、主の御業に用いて下さり、彼は自分の死により生前の働き全体を上回る働きをしたのです。
しかし、このような彼の祈りと生涯の終わり方の何処がいいのかと疑問があるかも知れません。では、サムソンを、彼の心の内を良くご存じだった神による評価を聖書に聞いてみましょう。
ヘブル11:32-34 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。/彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、/火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。
「信仰によって」とあります。つまり、神はサムソンの信仰を認められ、御心に叶った祈りに応えられたのです。
ここに、信仰から発せられる祈りの素晴らしさがあります。しかも私たちの祈りを、イエス様が取りなして下さります。なんと素晴らしいことでしょう。
サムソンが生まれるより以前、主がサムソンの母親に告げられたお言葉(士師記13:5)とおり、神は神の民を宿敵ペリシテ人からサムソンによって「救い始め」られました。
そして、後にダビデを用いてペリシテ人を滅ぼされたことは歴史上の事実です。
このように、創世記から黙示録の“狭間”に位置する士師記は、
○真のリーダー、真の牧者無き罪人の悲惨さと同時に、
○あわれみ深い主は、真実で完全で永続的なリーダーを遣わして神の民を滅びから救い出して下さること
を記しています。
それだけではありません。神は、完全で永続的リーダーとして、ダビデの子イエス・キリストを遣わされました。
福音書に記された主イエスの御業、お言葉、御生涯は、この方こそ私のリーダーだと納得させてくれます。
神の御子イエス・キリストこそ、完全で永遠の私たちの主でありリーダーであり教会の頭です。
そして、このイエス・キリストは人類最大の敵、サタンに完全勝利を収め、神の御業を完成して下さります。
ハレルヤ!です。
Ⅲ.結びのメッセージ
最後に、士師記に導かれて、キリスト者とはどんな存在なのかを確認して参りましょう。
[1] その人の強さが人々からは不思議に思われる存在
サムソンが「あなたの力はどこにあるのか」と問われたように、私たちキリスト者も、生きる力と、喜びと、平安の秘密はどこにあるのかと不思議に思われる存在です。
先日天に召されたいづみさんのことを思い出しますね。
[2] 「主こそ我らの力の源」であることを弁え知る存在
主がサムソンから去られたとき、彼はまったくのただの人であったように、私たちも上から賜物を受けなければまったくのただの人です。
主イエスが、「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)と言われたことを心に刻みたいです。
[3] 主に祈り求め、主から力をいただく存在
6月第一主日はペンテコステです。この日について私たちの霊的リーダーイエス様はこう言われました。
ルカ24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられる…」
イエス様が、祈りつつ待ち望んでいた信徒たちに、この約束を果たして下さった記念の日がペンテコステです。
私たちの主、私たちの霊的リーダーはただ一人、主イエス・キリストです。しかも、私たちがどこにいようとも主イエスは御言葉通して働かれる聖霊により私たちと共にいて、個人レッスンにより力を授けて下さっています。
キリスト者とはどんな人ですかという問いに色んな答え方が可能ですが、今日の士師記の御言葉に学ぶなら、
「イエス・キリストを倫理道徳の先生として学ぶる人」とか、「イエス様のような崇高な愛に生きようと努める人」とはならないでしょう。「私の救い主イエス・キリストの御名により祈り、力をいただく人です」と答えられるでしょう。
サムソンが当初デリラにのらりくらり適当に答えた様なことは出来ないですね。
主イエスは言われました。
ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
では、イエス様に繋がっていることでいただく最も素晴らしい力はなんでしょう。
コロサイ3:1-2 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。/上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
私たちがいただく力の中で、最も素晴らしい力は[よみがえりの命]ではないでしょうか。
〈キリストとともによみがえらされた〉と過去形で言われてもピンと来ないかもしれません。なぜなら、肉体の死は厳然として今も私たちを支配しているからです。でも聖書は「よみがえらされた」と過去形で明言します。
私たちのよみがえりは、サムソンの強さに似ています。
彼の怪力は自己鍛錬で取得した力ではなく、神の力が彼に発揮された結果でした。
私たちの[よみがえりの命]も、私たちの修練や善行により獲得するものではありません。
十字架上で贖いの死を遂げた主イエスを蘇らされた神の力が、主イエスに繋がる私にも与えられることです。
キリストに繋がっている私たちは、キリストの[よみがえりの命]が、既に私たちのものとなってます。
[よみがえりの命]が私たちのものになっているからには、私たちの古き人は十字架上で既に死んでます。
キリストが十字架上で死なれたことで、主イエスに繋がる私たちも古き自分に死んでます。
ですから、私たちは過去のことに囚われ続けず、新しく生きるのです。
最後に、もう一度サムソンの祈り(16:28)に目をとめてみましょう。復讐目的の祈りに感じられなくもないですが、〈まず神の国と神の義〉を求める信仰者として根源的な祈りであったと思うのです。そして私たちの〈まず神の国と神の義〉を求める祈りも、天にある無尽蔵の宝物蔵の扉を開く「合い言葉」です。
私たちもイエス様が教えて下さった様に〈まず神の国と神の義〉とを祈り求め、イエス様が豊かに与えて下さる力を発揮してまいりましょう。
そして、私たちの力の源が主にあることをはばかることなく証ししてまいりましょう。
