「恐れるな」
…あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書 43章1節
43:1 …「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。
今朝の聖書箇所は、今年の教会標語聖句です。ここには、神が希望の御業をなさることが力強く約束されています。
※「あながい」とは、「本来の所有者が、人手に渡った物を代価を払って買い戻すこと」です。後ほど詳しくお話しします。
1.最初に、誰に向けて語られた言葉か
イエス降誕より500年くらい前、バビロン捕囚という奴隷状態に長年おかれていた人々に対してです。
自由も希望も無い隷属状態に、もがいても無駄だと諦めて慣れっこになり、現実に埋没しかけていた人々に向けて、神が預言者イザヤを通して与えられたのが今日の御言葉です。
2.「恐れるな」
「恐れるな」という言葉は今日の聖句を理解する上でのキーワードです。まず、この言葉の使われ方に注目しましょう。
救い主イエス・キリストが処女降誕される時、
ルカ1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。
また、イエスが十字架上で贖(あがな)いの御業を成し遂げる為にエルサレムに入られる出来事について、
ヨハネ12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王が ろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。
とあります。つまり、「恐れるな」とは、人間が到底思い描くことすら出来ない様な驚くべき救いの業を神が為さる時に開口一番使われる言葉です。また、その目的は、
使徒13:41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。 (ハバクク書 1章5節、LXXの引用)
ともあるように、その出来事をただ驚き怪しむのではなく、信じて救われなさい、滅びてはならない。」との呼びかけです。ですから、イザヤ43章のイザヤ預言は、当時の人々にとっては、「バビロン捕囚からの解放を約束する預言を、ただ驚き怪しむのではなく、信じて救われなさい、滅びてはならない。」とのメッセージです。そして、特に大事なことですが、ここには救い主イエス・キリストが明確に指し示されています。
3.なぜ、私たち現代人も、遠い遙か彼方に語られた言葉に傾聴すべきなのか
人間の側と神の側との、二つの理由があります。
(1)人間の側の理由
私たちもバビロン捕囚に象徴される状態(罪と死への隷属、その状態への慣れ・諦め)と同様に生きているからです。一見奇妙なイエスの言葉が記されている出来事がヨハネ5章5節以下に書かれています。時間の制約上一部分しかお読みできませんが、
ヨハネ5:5-6 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。/イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
病人がなおりたいのは当たり前ですから、「なおりたいのか」は愚問のように感じます。ですが、長年に亘り、老化・加齢現象を自覚されている方々、長く持病や障害と付き合いながら生きてこられた方々なら、このイエスの問いかけに、ハッと気づかされることがあると思うのです。
これからどうなるかとの不安と同時に、本人も周囲も、これはもう良くならないのだと諦めていることです。病気や障害を持つ人ばかりではありません。人がバビロン捕囚に象徴される様な境遇、すなわち理不尽な束縛を受け不本意な日々を耐え忍んでいるうちに、その忍耐は尊いものですが、その環境に慣れて諦めてしまって、隷属状態に甘んじてしまうことが多々あるのです。特に、最初は忌み嫌っていた“罪”が、いつの間にか自分の人格の一部になってしまうことは、死と滅びに支配されることです。
しかし、いつの時代であろうとも、どの様な現実に支配されていようとも、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」と言われる神は、信じる者をそこから解放して人間らしく生きさせて下さるのです。
(2)神の側の理由
-イザヤ以前
とこしえに生きて働いておられる神は、旧約聖書に記された歴史上の出来事の中で、救いの計画を啓示し始められました。
-イザヤの時代(今朝の御言葉)
イザヤ43:1 …あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。
によってイエス・キリストを指し示されました。
-贖い主の御降誕
そして時が満ちて、神はイエス・キリストをこの世に遣わし、救いの御業を始められました。
ガラテヤ5:1 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
とある通りです。私たちは先ほど、この御言葉を歌詞とした讃美歌265番で「世びとの友となりて、自由をあたうるため、わが主は世にくだりて、罪をきよめたまえり」と讃美しました。
-終わり日を目指す現代
そして、イエス・キリストにより始められた救いの御業は、終わりの日にイエスに依って完成される迄続きます。
今日の御言葉は、直接的には旧約時代のバビロン捕囚となり隷属状態にあったユダヤ人への呼び掛けですが、本質的、根本的には、神に創造されたにも関わらず、堕罪の故に人間本来の自由を失っている人々への呼びかけであり、信じる者に実現することの約束です。私たちが今どのような現実に生きていたとしても、確かな希望を持つことができます。
4.驚くべき神の御業
①「わたしはあなたをあがなった」
繰り返しになりますが、「あながい」とは、本来の所有者が、人手に渡った物を代価を払って買い戻すこと。
ですから、「わたしはあなたをあがなった」とは、「人を創造された神が、自分の意思で堕罪した結果罪と死の支配に陥った人間を、御子の命を代価として支払い、御国を受け継ぐ神の子とする」ことです。そのことは、
ヘブル9:15 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。
とある通しです。
「あながい」の有り難さは、単なる“解放”で終わらず、私たち人間が“帰るべき場所”へと導き入れられることです。このことは、「罪を償って刑務所を出られた人が、受け入れて貰える所が無いと再犯に走ることが多い」という社会の実情を見れば、帰属する場所があることの有り難さが理解出来るでしょう。しかも「あがない」の為に神が払われた代価が、神の一人子イエス・キリストだったことから、人間の本来の所有者である神の愛と熱意が判ります。
Ⅰヨハネ4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
神の愛ゆえの贖いの恵みは、人々を恐れさせ恐れの奴隷にする罪の力よりも、また死の力、暗闇の力よりも強いのです。この様に、神は私たちを贖って下さった。わたしたちは、この恵みによって恐れに打ち勝つことができます。
②「わたしはあなたの名を呼んだ」
聖書で、神が人の「名を呼ぶ」とは、神がその人を命へと招くことを意味します。
ヨハネ15:15-16 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。/あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
神は、あなたを救いへ、命へ、神の子へ、と招いておられます。
③「あなたはわたしのものだ」
ヨハネ 10:27-29 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。/わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。/わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。
人から見た、また自分自身で見た“あなた”はどうであれ、「あなたはわたしのものだ」と言ってくださる神の目には尊い存在です。また“あなた”が誰からも大切にされなくても、誰からも愛されなくても、神は“あなた”に目をとめ愛してくださっています。
神があなたを贖って下さり、あなたの名を呼んでおられます。もはや恐れの根源である罪と死と滅びに隷属する者、奴隷ではありません。そして、神のものとされたあなたは、霊的国籍を天の御国に持っています。
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