主イエスは私の羊飼い (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)

主イエスは私の羊飼い (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)

詩篇23編 (新改訳2017)
<ダビデの賛歌。>
23:1 【主】は私の羊飼い。/私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ/いこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ/御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても/私はわざわいを恐れません。/あなたがともにおられますから。/あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え/頭に香油を注いでくださいます。/私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限り/いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。/私はいつまでも【主】の家に住まいます。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 23篇1-6節

詩篇23編の魅力

今日の御言葉は詩篇23篇です。いつ読んでも新鮮で心が安らぐ不思議な魅力を持っています。

その魅力とは、第一に、この詩篇では平安と満足がテーマになっていることです。多くの詩篇では、不安、恐れ、怒りがテーマになっているのと対照的です。

第二に、この詩篇では、詩篇記者ダビデと主の関係を「羊と羊飼い」のモチーフを用いていることです。神を自分のことを心配し備え、守り導き、癒やし助けてくれる身近な存在として表現します。神を「王」、「万軍の主」といった、人が近寄りがたい崇高で神聖な存在として表現するこが多いのと対照的です。

この詩篇の記者ダビデは、王に即位する前は羊飼いだったこともあるでしょう。彼は八人兄弟の末っ子だったため、誰もしたがらない羊飼いの仕事をさせられたのだとも言われますが。
いずれにしてもダビデは、人生経験を通して、羊飼いが羊に対して持つ責任と役割を学び、主を『自分と共に歩んでいのちを守ってくださる羊飼い』 と捉えることが出来たのでしょう。

1.信仰告白

では本文に進んでまいります。1節では主なる神とダビデとの関係についての信仰告白です。
 23:1 【主】は私の羊飼い。/私は乏しいことがありません。

ヘブライ語の詩篇には、俳句に通じる美しさがあります。この1節はわずか4つの単語で、
・主が私の羊飼いであるから、自分の必要はすべて満たされる、
・主が私の羊飼いでいてくだされば、それ以外は必要ないという、
旧約聖書の中で最も美しい神との信頼関係が言い表されています。

ところで、羊と羊飼いのモチーフは、イエス様もよく使っておられ私たちには馴染み深いのですが、旧約聖書では、異例のことなのです。なぜかと言うと、
羊は他の動物と比べて、自分の身を外敵から守るすべを持っていない弱い存在です。
しかも羊は動物の中でも特に手間が掛かる面倒な生き物なのです。
プライドが高い人なら、ましてや王たる者なら自分を羊に喩えないでしょう。ところがダビデは自分を羊に喩えたのです。ここにダビデの謙りを見て取ることが出来ます。

また羊飼いは、四六時中昼も夜も、晴れでも雨でも嵐でも羊と一緒に生活しなければなりませんでした。
羊飼いは、当時社会的身分が最も低い人の職業だったことは、クリスマスメッセージで聞かれたことがあると思います。

もっと驚くべきことがあります。全能の神ご自身が、羊飼いに喩えられることを良しとされたのです。詩篇記者ダビデが勝手に喩えたのではなく、まことの聖書の著者である神ご自身が羊飼いと呼ばれることを良しとされたのです。ここに神の謙りを見て取る事が出来ます。

こう言うわけで、詩篇23編は聖書の中でも異色の存在と言えるのです。
それでは2節に進んで参ります。

2.主の御業を羊に喩えて

 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ/いこいのみぎわに伴われます。

2節では、主の御業が行き届いた羊飼いの働きぶりに喩えられています。
この2節の情景は実にのどかですが、主が私たちの為にどれ程のことをして下さっているかを気づいていただきたいのです。
と言いますのは、羊が緑の牧場に伏せることが出来るのは、体調が良く腹も満たされ、外敵の気配も無く安心できる時だけです。
また、羊が「いこいのみぎわに伴われ」るのは、羊飼いが、どの時期にどの場所に水飲み場があるかを知っていて、しかも羊の状態を把握しており、彼らがそこまで群れて移動できるかどうかを判断できていてこそです。

ダビデに真実であられた神が、今も私たちの神でいて下さる! このことを私たちが信じて憩える為に、聖書が私たちの手元にあるわけですね。

3.主の御業 ~人間のいのちに直接関わる

次に3節です。
 23:3 主は私のたましいを生き返らせ/御名のゆえに私を義の道に導かれます

ここでは、迷い出た羊を探しまわって見つけ、背負って連れ帰る善き羊飼いというイメージを用いつつも、ストレートに主の御業が人間のいのちとの関わりで語られます。

少々余談になるかもしれませんが、この3節の魅力を十二分に味わうために、同義型パラレリズム(平行構造)という修辞技法についてちょとお話しさせて下さい。
同義型パラレリズム(平行構造)とは、2行目で1行目と異なった言葉使いを用いることで、1行目の意味をさらに具体化して述べ、そこに書かれている事柄の重みを強める為に使われます。

では3節です。1行目で「生き返らせ」と訳されている動詞は「悔い改めさせ」ることも意味する素晴らしいヘブライ語です。
したがって3節でダビデはこう言っています、「主はわたしを悔い改めさせてくださった!」、そうして「主はわたしを義の道へ導」き帰して下さった、つまり罪を赦して下さったと言っています。

この時ダビデは、サムエル記下11-12章に記された「ウリヤの妻バテシバを奪い取った出来事」を回顧していたことでしょう。その出来事とはこうです。王宮の屋上を歩いていたダビデは、ウリヤの妻バテシバがからだを洗っているのを偶然見てしまいます。その瞬間ダビデは肉欲に絡め取られ姦淫の罪を犯し、その事実隠蔽を王の立場を利用して謀ります。それが失敗したと見るやいなや今度は姦計によりバテシバの夫を戦死させ、未亡人として召し入れました。こうしてダビデは罪の深みへと沈んでいきました。しかし罪は隠し通せません。神ばかりか部下たちも事実を知ってます。
ですから国民の知るところとなるのは時間の問題でした。そうなれば王としての権威も人望も失われ、国は動揺し弱体化し、神の栄光も地に墜ちてしまいます。
ダビデは自分の罪に心が痛んだことでしょう。しかし彼は自発的に罪を悔い改めて罪赦される術を持たず、預言者ナタンが遣わされて来て初めて罪の悔い改めへと導かれたのです。
この体験を持つダビデだからこそ、自分を羊に、神を羊飼いに喩えることが出来たのでしょう。

事実、羊は、群れから迷い出ても自力で戻る能力を持ちません。せいぜい岩や潅木の陰で悲しげに泣くだけだそうです。そうなると羊がいのちを保つためには、野の獣が羊の泣き声を聞き匂いを嗅ぎつけて襲って来る前に、羊飼いに見つけ出され羊飼いに背負われて群れに連れ戻してもらうしか方法は無いのです。まさにダビデがそうだったのです。私たちも同様ではないでしょうか。

主イエスは一つの喩えを話されました。
 ルカ15:4-6 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。/見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、/家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。

これが主イエスがして下さった喩え話ですが、
 23:3 主は私のたましいを生き返らせ/御名のゆえに私を義の道に導かれます

こう主を誉め讃えたダビデは、まるで主イエスの話を聞き知っていたかのようですね!

4.主への全幅の信頼

この4節からダビデは「主」を「あなた」と呼んでいます。顔と顔を合わせる様な距離の近さが伝わってきます。
 23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても/私はわざわいを恐れません。/あなたがともにおられますから。/あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです

「死の陰の谷」とは「深刻な闇」、絶体絶命の状況ですが、その様な状況でもダビデは「私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです」と言い切ります。

この言葉は、かつてダビデが羊飼いだった時、ゴリアテとの戦いに臨んだ武装兵たちが恐れおののく中で表明されたダビデの言葉白と重なります。
 Ⅰサムエル17:37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった【主】は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

4節後半に、あなたのむちとあなたの杖とありますが、
「むち」とは羊飼いが羊を襲う獣と戦うときに使われた武器で、現代の警官が所持する警棒のようなものです。
また「杖」は、一端にフックが付いた独特の形状をした長くて頑丈な杖で、迷い出る羊を引き戻す時にも使われました。主の守りが羊飼いが使う道具に譬えられています。
要するに、4節では「羊飼いが大変な労力を払って羊を守る如く、私たちの神は信仰者を守って下さる」と証しされています。

5.勝利宣言

5節、羊飼いが羊を導いて死の陰の谷を抜け出したところ、そこは主ご自身が用意された王の祝宴です。
 23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え/頭に香油を注いでくださいます。/私の杯はあふれています。

「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え」とは、「既に敵に勝利を収められた王ご自身が私の為に祝宴を用意して下さった!」 との驚くべき表現です。
そこに「私の杯」とありますが、聖書で「杯」は神が人に与える報いを象徴しますが、この5節の「杯」は祝福と喜びを表します。しかも,同席する仲間と同時に飲み干して互いに祝福しあうこと、苦しみを分ち合うことを意味します。

この、主がダビデに見せて下さった幻、ダビデが望み見た祝宴は、主イエスにおいて現実となりました。
ゲッセマネの闇の中で敵が待ち受ける中、主イエスが最後の晩餐でこう言われたことを思い出して下さい。
 ヨハネ16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

最後の晩餐は、主イエスご自身が罪を贖う犠牲となられ、主が私たちの敵・死に勝利される前祝いの宴です。
パウロは最後の晩餐での主イエスの言葉をこう記しています。

 Ⅰコリント11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」


宴の杯は、「わたしの血による新しい契約」、すなわち主イエスへの信仰による救いと、死と滅びに勝利した祝杯です。
また、ヘブル書には、さらなる祝杯の意味が書かれています。
 ヘブル10:16-20 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。-主のことば- わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、/「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。/罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。/こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。/イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」

この17節の「わたしは、もはや貴方の罪と不法を思い起こさない」との宣言や、19節の「大胆に聖所に入る」、すなわち、はばかることなく神のとの交わりに与らせて頂けるとはなんという慰め、喜びでしょう!

6.再創造 ~原初の回復と永遠の栄光

いよいよ最後の節となりました。
 23:6 まことに私のいのちの日の限り/いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。/私はいつまでも【主】の家に住まいます。

「恵み」と訳された言葉は、ご自分の民に忠実で約束を誠実に守られる神の愛情を現します。

最後に、6節で「いつくしみ」と訳された言葉が現す意味、詩篇23編のクライマックス、頂点とも言えることをお話しします。
この「いつくしみ」という言葉は、天地万物の創造過程で「良かった」と6回繰り返される言葉と同じ単語なのです。
 創世記1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日

神が天地万物の創造を終えられた時の「良さ」、それは人類の祖アダムとエバの堕罪により全人類が罪と死に支配される前の「良さ」です。また、主イエスが再臨される時の再創造の御業によって回復される「良さ」です。
詩篇23編は、このような人類の歴史の始めと終わりにおける主の御業を仰ぎ見つつ、またそこにおける「良さ」を私たちに指し示しつつ閉じられています。

7.結び

この詩篇は、神に対する確信と希望の詩です。この確信と希望は、世界を創られたまことの神が、私たち罪人を救うと約束された神ご自身がこの世界に来て下さったことで私たちに現実となりました。
ダビデがあなたと呼んだお方は、世界で初めてのクリスマスの夜、人としての姿をもって私たちの世界に来て下さった神の御子イエス・キリストです。
主イエスは言われました。
 ヨハネ10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

ですから、
 23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても/私はわざわいを恐れません。/あなたがともにおられますから。/あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです
 23:6 まことに私のいのちの日の限り/いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。/私はいつまでも【主】の家に住まいます。

これは主の御言葉です。
この御言葉に信仰を持って聞いている今、この時、この御言葉はあなたに既に実現しています。

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