命みなぎる知恵のことば (シンシナティ日本語教会 主日礼拝)
箴言(新改訳2017)
22:17 耳を傾けて、知恵のある者たちのことばを聞け。私の知識に心を向けよ。
22:18 これらをあなたのうちに保つのは楽しいこと。これらをみな、あなたの唇に備えよ。
22:19 あなたが【主】に拠り頼むことができるように、私は今日、特にあなたに教える。
22:20 私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。
22:21 これは、あなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に、真理のことばを持ち帰らせるためである。
日本聖書協会『口語訳聖書』箴言 22章17-21節
今日私たちに与えられた御言葉は箴言です。
この箴言は、世の中を観察して得られた賢者の知恵や知識の数々を私たちの主でいて下さる神が聖霊によって霊感して、
神自身の言葉、「聖書」とされたものです。
箴言には、とこしえに変わらない神の真実が込められています。そのとこしえに変わらなぬ神の真実ゆえ、箴言は何千年もの風雪に耐え、如何なる時も私たちの魂を慰め励まして希望と力をもたらす、まさに「時宜にかなった」神の知恵、神の御言葉です。
そこで今日は、箴言の中で「三十の知恵のことばの序文」と呼ばれる聖書箇所を柱として、
1.御言葉に聞くうえでの私たちの心構え
2.神は、知恵の言葉・律法を教え、何を為されるか
3.知恵の言葉に聞くのは楽しいこと
を解き明かしてまいります。このことを通して、「いのちみなぎる知恵のことば」に生かされている喜びを、皆様と一緒に味わい、この一廻(ひとまわ)りの持ち場へと送り出されましょう。
■1.御言葉に聞くうえでの私たちの心構え
「御言葉に聞くうえでの私たちの心構え」ですが、三点教えられています。
その第一は17節、耳を傾け心を向けて聞くことです。
22:17 耳を傾けて、知恵のある者たちのことばを聞け。私の知識に心を向けよ。
あたかも、弟子と差しで向かい合った先生の開口一番の言葉の如く、神が語り始めます。
この17節には、御言葉に聞く私たちの心構えとなるキーワード的な動詞が二つあります。
「(耳を)傾ける」と「(心を)向ける」です。この言葉の微妙な意味合いを探求して、同じヘブル語が使われる聖書箇所を開きましょう。
(1)まず「(耳を)傾ける」と翻訳された動詞ですが、創世記26:25では「(天幕を)張る」と訳されています。お読みします。
創世記26:25 イサクはそこに祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。
つまり、御言葉を聞く時は、大地にしっかりとテントを設営するような心構えで聞きなさいと教えられています。
(2)次に、「(心を)向ける」と翻訳された動詞です。この言葉は、ルツ記の、落ち穂拾いにやってきたルツが上着を袋代わりにして穀物を持ち帰る場面で、「(背中に)負う」と訳されています。お読みします。
ルツ3:15 「あなたが着ている上着を持って、それをしっかりつかんでいなさい」と言った。彼女がそれをしっかりつかむと、彼は大麦六杯を量り、それを彼女に背負わせた。…
麦がズッシリ入った上着を、そこから一粒もこぼすまいと慎重に背負う様な面持ちで知恵の言葉に向き合いなさい、と神は私たちに勧めておられます。
第二の、御言葉に聞くうえでの私たちの心構えは18節。楽しいことと信頼し期待して聞くことです。
22:18 これらをあなたのうちに保つのは楽しいこと。これらをみな、あなたの唇に備えよ。
と書かれています。具体的に何が楽しいことかは後ほどお話しします。
そして第三の、御言葉に聞くうえでの私たちの心構えは、知恵の言葉、箴言を、処世訓としてではなく神の律法として読むことです。19-20節をお読みします。
22:19 あなたが【主】に拠り頼むことができるように、私は今日、特にあなたに教える。
22:20 私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。
少々横道にそれますが、20節に「あなたのために書いた三十句」とあります。この三十句とは、この後に続く22章22節から24章22節のことで、その内容は箴言全体の要約とも言えます。ただ、注目すべき事があります。
(1)今日の箇所より前では、専ら二行対句(ついく)を用いて、あたかも第三者が知恵と知識を語っているかのようです。
(2)ところが、今日の箇所(三十句の序文)と三十句の本文では、親が子どもに向き合うように「あなたと私」という差しで語られていることです。
本題に戻ります。
御言葉に聞くうえでの私たちの心構えの第三は、「知恵の言葉、箴言を、処世訓としてではなく律法として読むべき」なのはなぜでしょう。
正統的キリスト教会は、異教や異端との信仰の戦いに勝利するために、自分たちの信仰を公にした「信仰告白」を大切に持っています。そして、子どもも含めた信徒教育に用いています。その「信仰告白」の一つに、ウェストミンスター信仰基準があります。そこでは、十戒の第五戒から第十戒、「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、むさぼるな」について、箴言の100カ所以上を引証聖句としているのです。
このことから、箴言は、
人間が人間らしく生きる為に神が十戒に込められた御心を、
世の中を観察して得られた賢者の知恵や教訓と言う形で、
私たちの実生活に即して具体的に教え導く
ものであることが判ります。
私たちの心を捉えて放さない箴言の魅力は、ここに源を発しています。ですから箴言は、世の中の格言、金言、知恵の言葉の類いとは本質的に異ります。
人間社会で上手に立ち振る舞い自分を立て自分を満足させられることは、知恵の言葉の目的ではなく知恵の言葉を聞いた結果です、主の祝福です。
知恵の言葉、箴言を、処世訓としてではなく神の律法として読むべきこと、皆さま納得いただけたでしょうか。
■2.神は、知恵の言葉・律法を教え、何を為されるか、
さて、知恵の言葉が教えられ律法が聞かれる時に、そこで神がなさることを、新約聖書ローマ人への手紙に見ていきます。
そこには、誰よりも真剣に律法に向き合ったパウロ自身が登場します。そして彼は、律法の言葉によって自分の性質・心・生活の罪深さを露わにされて叫んでいます。
ローマ7:15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。//7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。/7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。/7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
ちょとここで補足説明を挟みます。21節で「原理」、22節以降で「律法」と訳された言葉は、ギリシャ語no,moj(ノモス)「律法」ですが、ここでの意味は、十戒等律法そのものではなく、「人をコントロールし行動へと駆り立てる内部から働く力」の意味です。
このことを踏まえてローマ7:22に進みます。
ローマ7:22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、/7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。
パウロは、自分が喜んでいる律法の言葉により自分を吟味した時、そこで彼が発見したのは、神の律法を喜にながらも、現実の生活では罪の奴隷になっている自分でした。
ユダヤ人社会のエリート中のエリートだったパウロが、自分の罪と悲惨さを認め謙ってこう続けます。24節、
ローマ7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
自分の悲惨な状態を認めて謙ったパウロは、神からイエス・キリストを指し示され、神を誉め讃えます。25節、
ローマ7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
ここでパウロは神に感謝して神を誉め讃えています。神は私を、主イエス・キリストへの信仰へと導き、救って下さった。「あなたが【主】に拠り頼むことができるように、私は今日、特にあなたに教える」(箴言22:19)との約束通り、真実なる主は私を教えて下さった。だから私は今尚「肉では罪の律法に仕える」という惨めさを担ってはいるが、神を喜び主イエス・キリストに拠り頼むことが出来る、と。
そしてパウロは、キリストを信じる者一人ひとりに、神は何をして下さったかを証しします。
ローマ8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。/8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。/8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
律法は罪人を裁けるが罪人を救うことは出来なかった。それは、神が、御子イエス・キリストを罪の世に遣わし、十字架上で贖いの死により救いの御業を成し遂げる為でした。
この様に、神は、知恵の言葉・律法を教え、神と真摯に向き合うその人を、イエス・キリストへと導き、救いに与らせて下さいます。これが神の御心、福音です。
■3.知恵の言葉に聞くのは楽しいこと
ここで、箴言22章18節に戻ります。
22:18 これらをあなたのうちに保つのは楽しいこと。これらをみな、あなたの唇に備えよ。
御言葉を保つのは「楽しいこと」と有りますが、このヘブル語の原意は「(知恵の言葉の)目的に適っていて麗しいこと、誉められるべきこと」と言う意味です。
では、(知恵の言葉の)目的に適い麗しく誉められるべきこと」の中で、皆様にとって最高のものはどんなことでしょうか。主イエスは言われました。
マタイ16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
永遠のいのちを獲得することは、全世界を手に入れることより遙かに「楽しいこと」です。
この「楽しいこと」のために、共にいます神自ら実地訓練をしてくださります。
ヘブル12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。/12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」/12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
「主に叱られて気落ちしてはならない」とは凄い励ましの言葉ですね。この訓練が「楽しいこと」なのは、必ず実を結ぶからです。
ヘブル12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
神が私たちに結ばせて下さる実りは「(神の御前に)義という平安の実」です。そして、
ガラテヤ5:22 …御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、/5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
「このようなものに反対する律法はありません」とありますが、箴言を読んだことがある方は直ぐピンと来るはずです。この「御霊の実」こそ、箴言が勧めかつ戒めていることです。
箴言が私たちに与えられた背景には、混沌とした罪深いこの世と人間の現実があります。
ガラテヤ5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、/5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、/5:21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
これが混沌として罪深く滅び行くこの世と罪人の現実です。義であり、同時に愛であられる神は、私たちをこの世から霊的に分離させ救い出し聖別するために、世の中を観察して得られた賢者の知恵や知識の数々を聖霊によって霊感して、神自身の言葉「聖書」を箴言として与えて下さったのです。
これこそ良き知らせ福音であり、「楽しいこと」以外のなにものでもありません。
また、箴言22:21でも「楽しいこと」が約束されています。
22:21 これは、あなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に、真理のことばを持ち帰らせるためである。
この21節は、けっこう難解な箇所ですが、こう解釈できます。
勧告と知識についての三十句を、神である私が書き記してあなたに教えたのは、私の思いをあなたに教え、あなたをこの世に遣わす為だ。そして私は、真理の言葉の実りをあなたに持ち帰らせる。
「真理のことばを持ち帰らせる」と言う約束の言葉は、イザヤ書の御言葉を想起させます。
イザヤ55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。
箴言もイザヤも、神みずから御心を成し遂げるとの約束で、いずれも新約聖書で具現化しました。
ご自分の御子を救い主として遣わし、
私たちの罪を御子が十字架上で贖い
御子を死人のうちからよみがえらせ、命の言葉の確かさを明らかにし
助け主を遣わし教え導く
私たちは、この神の御業・福音に与った、実にさいわいな人間です。
ピリピ1:6 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる…
からです。
■結び
おそらく皆様が聖書を開くと線引きがいっぱいあると思います。私もそうで、特に箴言に多いです。その一つに、
箴言14:29 怒りを遅くする者には豊かな英知がある。気の短い者は愚かさを増す。/14:30 穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ。
があり、そこを開くと丁寧に引かれた赤線が目に入ってきます。聖書に線引きするということは、今風に言うなら 「いいね!」をしたことですね。その箇所を今開いて自分を振り返ってみると、「自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを」私もしていたことに気づき、顔が火照ります。
私も大使徒パウロと同じと思えばホットしますが、私も罪人の頭(かしら)だと言われると複雑です。
また、私たちの聖書に残る線引き跡は、私たちの信仰生活の足跡であり、同時に、私たちを担い運んでくださる主イエスと聖霊なる神の足跡でもあります。
イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
あなたの神である私は貴方にそうしてきたのだ。私は貴方を運ぶ、背負って救い出す、と神は言われます。
私たちが確信出来ることは、神は、パウロと同様に私たちを救い主イエス・キリストへと導き、良き業を始めて下さっており、それを完成させて下さることです。
主イエスは言われました。
ヨハネ8:12 …「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
さあ、私たちは御言葉に生かされる喜びを携え、この一週の働きへと遣わされて参りましょう。
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