「もろびとこぞりて」 (讃美歌112番)

「もろびとこぞりて」 (讃美歌112番)

61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書 61章1~3節

讃美歌112番
クリスマスに歌われる讃美歌には情景を歌う曲が多いですが、今日取り上げる讃美歌112番 「もろびとこぞりて」(※1)は、聖書を引照しながら(※2)クリスマスの意義を歌っていることに特徴があります。
※1 歌詞はリンク先をご覧下さい。
https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa112.html
※2 『「讃美歌」および「讃美歌第二編」のための聖句引照索引』 、日本基督教団賛美歌委員会日本基督教団出版局、1974年

聖書の場面
歌詞が引照する聖書箇所は、荒野の誘惑に勝利したイエスが宣教を始めた時の場面です。
 4:15-19 イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。/それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。/すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、/「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、/主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

主イエスが開かれたのはイザヤ書61章でした。そして、
 4:20-21 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。/そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

このイエスの言葉に応えて、讃美歌112番が歌われます。

讃美歌112番 1節
 諸人(※あらゆる人)こぞりて(※みんな一緒に) 
 むかえまつれ(※お迎えしなさい)、
 久しく 待ちにし 主は来ませリ、
 主はきませリ、主は、主はきませり。
 
「久しく 待ちにし 主」と歌いますが、それもその筈。イエス降誕より700年前頃に預言者イザヤを通してなされた約束「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(4:21)からです。
しかも讃美歌では、「主は来ませり」、救い主イエスは来られた、と高らかに繰り返すことで、“神が約束しておられた「救い主」が、まさにそのお方が、遂に来られた”との万感胸に迫る喜びを表現しています。

讃美歌112番 2節
 悪魔のひとやを うちくだきて、
 捕虜(とりこ)をはなつ(自由にする)と
 主はきませリ、主はきませリ、
 主は、主はきませり。

「悪魔のひとやを うちくだきて」ですが、「ひとや」は、しばしば一本の弓矢とか、一夜とかと解釈されますが全く違います。そう誤解してしまうとクリスマスの意義も判りません。「ひとや」は人牢です。ですから「悪魔のひとや」とは、“悪魔が人間を支配している状態”のこと、“死んで滅びるしかない状態”を言います。そしてこれこそ、イエス・キリストによって救われていない全ての人の霊的状態です。
ここで大事なのは、「私たちを解放する方法です。「解放」と訳された言葉の原義を他の聖書箇所から探ってみましょう。
 マタイ26:28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

ここでは「ゆるし」と訳されています。つまり、私たちが悪魔の牢から解放されるのは、罪の赦しに依ります。力ずくで牢を破るのではありません。イエスが十字架上で私たちの身代わりに血を流して下さった“身代金”故に私たちは釈放されるのです。
ですから、クリスマスを寿ぐ讃美歌112番で祝われるイエスの誕生は、“苦難のしもべ”としての御生涯の幕開でもあります。

讃美歌112番 3節
 この世の闇路を 照らしたもう
 たえなる(※不思議にすぐれた)光の 主はきませり、
 主はきませリ、主は、主はきませり

「闇路」とは、岩波国語辞典によれば「闇夜の道。比喩的に、思慮も分別もきかない状態」です。ところが、
 イザヤ9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

と旧約聖書で預言されていた救い主が来られた!と讃美歌112番3節は歌っているのです。
 4:18b …主はわたしをつかわして…盲人の目が開かれることを告げ知らせ…

とあります。イエスは身体的盲人の目を開けることが出来るお方であることは奇跡が実証しています。そればかりではありません、
 ヨハネ9:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

と書かれている様に、霊的な目をも開いて下さります。その喜びを3節は歌います。

讃美歌112番 4節
 しぼめる心の 花を咲かせ、
 めぐみの露おく(※恵みを露のように与えて下さる) 主はきませリ、
 主はきませリ、主は、主はきませり。

讃美歌の4節では、
 4:18b …主はわたしをつかわして…打ちひしがれている者に自由を得させ、

この喜びを歌います。
4節の「しぼめる心」、精神的にペシャンコになっている人々のことです。詩篇には、「しぼめる心」から発せられた呻き叫びが数多く記されています。
 詩篇38:8 わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。

現代も、多くの人々が虐げられて呻き、“正義と公平”と訴えながら弱り果てています。
しかし、讃美歌112番 4節は、高らかに歌います。このクリスマスに来て下さったお方は、「しぼめる心に花を咲かせ」て下さる! 乾ききってひび割れた私の魂に、“恵みの露”を与えて下さる主なる神だ!と。箴言19:12 王の…恵みは草の上におく露のようである。
と聖書に書かれていますが、私たちは信仰によって求めさえすれば、この恵みを受け取れます。
主イエスは言われました。
 4:19, 21 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」…「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

旧約聖書で告げ知らされた「めぐみの年」とは「ヨベルの年」のことです。ここでは説明を省きますが、イエス・キリストによる救いを指し示しています。使徒パウロはこう言っています。
 Ⅱコリント6:2 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

このように、「めぐみの年」とは、福音が宣べ伝えられ、イエスへの信仰により罪人が救われる時代のことです。この時がついに来た!と讃美歌112番は高らかに歌います。

讃美歌112番 5節
 平和のきみなる み子をむかえ、
 すくいのぬしとぞ ほめたたえよ、
 ほめたたえよ、ほめ、ほめたたえよ。

讃美歌を歌ったり聞いたりすると、心が清々しくなったり気分が高揚したりもします。しかし讃美歌112番は、
「諸人こぞりて むかえまつれ」で始まり、「和のきみなる み子をむかえ すくいのぬしとぞ ほめたたえよ!」と閉じられます。使徒パウロはこう奨励しています。
 ローマ10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

讃美歌に接する時は、その人の救いの始まりでもあります。

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