クリスマスになると、様々な讃美歌が教会の内外で歌われ演奏されます。また、聖書に記されたクリスマスの情景、「クリスマス物語」が描かれたクリスマスカードは、多くの人々に喜ばれています。ただいまご一緒に讃美しました讃美歌106番の1節では、
1)荒野(あらの)の果てに 夕日は落ちて
妙(たえ)なる調べ 天(あめ)より響く
グローーリア、イン エクセルシス デオ
グローーリア、イン エクセルシス デオ
と歌っています。
https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa106.html
2:8-9 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。/すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照した…
この聖書箇所が歌われています。けれども、よく考えると、この出来事は世の中の常識から外れています。非現実的です。現代であれば、「プロジェクションマッピング」(コンピュータと映写機器を使って、建物や物体、あるいは空間などに映像を映し、それに合わせて音楽等を流す技術の総称)使えば可能でしょうが、二千年も前のパレスチナで夕日が落ちたら、そこはまっ暗闇。ところが、天から、超自然的な光が照ってきて妙なる調べが奏でられたと言うのです。
けれども、「クリスマス物語」やクリスマスの讃美歌に“突っ込み”を入れる人は、多くはおられないと思います。「クリスマスの時くらいおおらかに、幻想的になって楽しく過ごしてもいいじゃないか、野暮なことを言うな」と寛容的に受け止められているのでしょう。しかしそれは、クリスマスの出来事を人間理性という“メガネ”を通して見てしまっています。聖書は、神が私たちを救う為の御業を始められた事実を告げているのです。
1.クリスマス ~闇夜に光が差し込んできた出来事
2:8-9 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。/すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
野宿をして羊の群れを番していた羊飼いたちに、メシア誕生の知らせがもたらされたのは闇夜です。また、東方の博士たちをイエスの元に導いた(マタイによる福音書2章)のは、闇夜に輝く星でした。
ヨハネ1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた
「クリスマス」は、
イザヤ9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った
この紀元前730年頃の旧約預言が成就して“闇”の世界に“光”が輝き始めた出来事です。これまで人類が見たこともなかった大いなる光、暗闇と死の陰に弱り果てている人々を照らす命の光が、本当に来たのです。ところで、救い主イエス・キリストの地上の御生涯を記したのが福音書ですが、その舞台になっているのは「闇の世界」です。先週お話ししましたが、讃美歌112番「諸人こぞりて」の2節、「悪魔のひとや」の「ひとや」とは「牢獄」」のことで、「悪魔のひとや」は、人間を支配する罪と死と滅びのことです。これが「闇の世界」です。そして、イエスの地上の御生涯が十字架に近づくにつれて、その“闇の暗さ”は薄らぐどころか深まったのです。イスカリオテのユダの裏切りは、夜中に実行に移されました。
ヨハネ13:30 ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
かつてゲッセマネの園で、主イエスは言われました。
ルカ22:53 毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。
そして主イエスが捕らえられると、
マルコ14:50 弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
弟子たちは一人残らず闇の中へ逃げ込んだのです。その闇の中でペテロは主を三度知らないと否み、
マルコ14:72 するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。
これらはみな夜の闇の中で起きました。そしてイエスが十字架に掛かられ、
マルコ15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ
そして、
マルコ15:45-46 そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。/そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。
イエスの死体は一筋の光すら差し込まぬ完全な暗黒の中で、大きな石により封印されました。救い主イエス・キリストの「光の物語」は潰えたかのようでした。
ところが、
ヨハネ1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
イエスは死んで葬られた三日目によみがえられました。そして主イエスは、
ルカ1:79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。
そういう訳で、私たちは“光”であり“道”であるお方、救い主(メシヤ)の誕生を喜びクリスマスを祝うのです。
2.クリスマス ~光の完全勝利をも指し示す出来事
暗闇の中にいる私たちを照らし出す“光”は、私たち人間の手によるものではありません。超自然的な光は上から、天から来るのです。神はそのことを前もって約束されていました。
イザヤ42:16 わたしは目しいを/彼らのまだ知らない大路に行かせ、まだ知らない道に導き、暗きをその前に光とし、高低のある所を平らにする。わたしはこれらの事をおこなって彼らを捨てない。
この約束の実現を御使いが告知したのが、
2:10-14 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。/きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。/あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。/するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、/ 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
であり、讃美歌106番は私たちの応答です。
4)今日しも御子は 生まれ給いぬ
よろずの民よ 勇みて歌え
グローーリア、イン エクセルシス デオ
グローーリア、イン エクセルシス デオ
3.「光の物語」は、神から人類への贈り物
「光の物語」であるクリスマスは、天の御国と言うゴールを指し示します。そこに至る一人ひとりの人生は、指紋がみな違うように、人それぞれ異なります。しかも人生には誘惑や試錬がつきもので、暗黒の谷底をさ迷うこともあります。たとえそうであっても、「暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導く」お方に従っていけばいいのです。
ヨハネ8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
■この日の讃美歌
98番「あめにはさかえ み神にあれや」
106番「あら野のはてに 夕日は落ちて」
■この日の信仰告白
使徒信条 (讃美歌566番)
