聖書には、何故こんな事が書かれているのだろう?!と思わせられる記事が沢山あります。その一つがこの出来事です。
「その時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった…神とともに歩んだ」(創世記6:9)
ノアは、信仰によって大洪水から救われました。ところがその後に、彼はぶどう酒に泥酔して裸で寝てしまう醜態を演じました。ノアには彼と共に箱舟に乗って救われた三人の息子、セム、ハム、ヤペテがいましたが、酒で失敗した父の醜態に対する彼らの態度を記した聖書の言葉には、私たち現代人の心に突き刺さる鋭さがあります。彼らの対照的な行動が次のように記されています。
「ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。」(創世記6:22-23)
父を辱めたハムとは対照的に、セムとヤぺテは「着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄」るという、ある意味滑稽な行動をとって父の裸を見ることなく、そっと父の裸をおおったのです。
創世記に記されたハムの行動は、私たちの社会で今もなお陰湿に繰り返されています。少し前の報道ですが、福島から横浜に自主非難した子どもがイジメを受けていたのです。災害によって、故郷を、友だちを、慣れ親しんだ日常を失っても懸命に生きようとする命を“おおう”どころか、人間業とはとても信じられない仕打ちで辱(はずかし)め苦しめ続けた人々、その仕打ちを見て見ぬふりした人々もいたとは、病んだ現代社会の闇を垣間見る思いです。
私たちはどちらでしょうか。人の“弱さ”や失敗を、ハムの如く面白半分に話のネタにしたり、人を卑しめ辱めることで高揚感を得たりするのか、あるいはセムとヤぺテのように、人の“弱さ”や失敗を、そっと愛をもっておおうのか。
私たちキリスト者は、イエス・キリストによる十字架上での贖いにより、「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわい」(詩篇32:1)な者です。私たちは神の愛におおわれた存在です。その私たちがこの喜びと温(ぬく)もりをもって誰かをおおう時、その暖かさを知ったその人も他の人を愛でおおえる人となっていくことでしょう。