2025年12月21日 クリスマス記念主日礼拝説教「一粒の種の贈り物」

2025年12月21日 クリスマス記念主日礼拝説教「一粒の種の贈り物」

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
日本聖書協会『口語訳聖書』ヨハネによる福音書 1章1-18節

まえおき ヨハネによる福音書とクリスマス

私たちが毎年記念してお祝いするクリスマスの出来事は、三つの福音書にそれぞれの視点で具体的に記されていますが、ヨハネによる福音書の特徴は、具体的な出来事抜きにクリスマスの根源的意味合いを記していることです。

1.「この方」

 _†_ ヨハネ1:1-5 _†_
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

今日の聖書箇所では「この方」と言う言葉が15回も繰り返されています。「この方」とは神ご自身であり、世界の創造者であること。また「この方」は、いのちと光の源であり神を解き明かす存在、人となって現れた救いの完成者、そして17節で「この方はイエス・キリスト」、18節では「この方はひとり子の神」と証されます。

イエス・キリストの「キリスト」はイエスの称号でして、他にも「メシヤ」、「救い主」、「世の光」、「王の王」、「人の子」などがあります。また、イエスを象徴する言葉には、今日の箇所に登場する「ことば」、「いのち」、「光」の他に、「岩」「羊飼い」「パン」「ぶどうの木」「種」などがあります。これらの言葉は密接に関係しあってイエスのご性質、使命、教えを表現しています。

2.旧約聖書におけるこの方 ~世は「この方を知らなかった」

 _†_ ヨハネ1:9-10 _†_
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

「まことの光が世に来ようとしていた」時代、すなわち旧約聖書の時代に、「この方」、神の御子イエスが人をどのように養われたかを見てまいりましょう。

 _†_ 創世記1:11-13、29 _†_
1:11 神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。
1:12 地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
...
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。

このように神、すなわち「この方」イエスは、人を創造するより先に種を持つ植物を備え、「私たちが神の中に生き、動き、存在」(使徒17:28)できるように整えて下さっていました。
しかしアダムとエバは、自分たちに命を与え養ってくださっていた神に背を向け堕罪してしまいました。
その時、神は、

 _†_ 創世記3:15 _†_
3:15わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫(thy seed)と女の子孫(her seed)の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

こう宣言されました。これは旧約聖書における最初のメシア預言(原福音)ですが、さらに、

 _†_ 創世記3:22-24 _†_
3:22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
3:23 神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

神は、永遠の命を支える糧であったいのちの木の実を取り上げ、地上の命を支える糧を自力で得るようにされました。アダムとエバはこの事態に陥って初めて、神が自分たちの命の源であり、かつ養っていてくださっていたことに気づいたことでしょう。

それから時代が下るにつれ、人はますます神から離反し自分たちで自活できると思い上がりました。そこで神は神の民に、モーセを通して律法をお与えになり、悔い改めとイエス・キリストに導く手段の一つとして、裁きとしての飢饉と祝福としての養いとを与えられました。

さまざまな出来事の中からいくつかご紹介しましょう。

(1)モーセに率いられた民が荒野で飢えた時、神が民を養うことをマナにより教えられました(申命記8:3)。
(2)また飢饉は、人の決断を伴う行動を促し、「この方」救い主イエスが来られる迄の歴史を大きく前進させる転換点となりました。そのことが最も際立つ聖書箇所の一つがルツ記でしょう。

 _†_ ルツ1:1 _†_
1:1 さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。

他にも、アブラハムが御言葉に従って故郷を出た後にカナンからエジプトへ旅立った動機や(創世記12:9-13)、ヤコブとその一族全員がエジプトへ移住したきっかけ(創世記42章以降)も飢饉でした。

(3)さらに、神は不信仰への裁きとして飢饉をもたらしました。悔い改めてまことの神に立ち帰らせる為でした。ダビデ王の時も、預言者エリアの時代も、その他聖書のいたるところでそのような飢饉が記されています。
ですから旧約聖書は、養いと飢饉を用いた教育訓練を記した歴史書と言えましょう。

さて、10節に進みますと、ヨハネはこう記しています

 _†_ ヨハネ1:10 _†_
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

人々は「神の中に生き、動き、存在」していたにもかかわらず創造主を知らないまま、「この方」との深い人格的関係を持てないままでした。
しかし、神がなされた教育訓練が失敗だった訳ではなく、「この方」イエスによって万人に向けた救いと養い(永遠のいのち)がもたらされる摂理のもとにありました。
11節に進みますと、

3.ご自身を現されたこの方の言葉が聞こえる

 _†_ ヨハネ1:11-13 _†_
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

「この方」神ご自身が世に来られたにもかかわらず「人々は受け入れなかった」と証言されています。それでも「この方」はご自分の民を愛するが故に、ご自身の救いと養いの計画を粛々と進められました。

「この方」イエスの言葉をいくつか聞いてまいりましょう。

① わたしの言葉を聞き、わざを見て信じなさい
 _†_ ヨハネ14:10-11 _†_
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。

② 私は万民に向けて種を蒔く (ルカ8:11など)
福音は万人に向けられていることを、イエスは種蒔きにたとえられました。種に譬えられた神の言葉(=主イエス)は、道端、岩の上、茨の真ん中、良い地に譬えられた人々に昔も今も分け隔て無く蒔かれるのですね。

③ からし種に譬えられた生命力
 _†_マタイ13:31-32 _†_
13:31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。
13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」

このたとえの通り「この方」イエスは、クリスマスの夜、馬小屋という取るに足らない場所でお生まれになりましたが、時代を超えてグローバルに広がり、多くの人々に救いと安息をもたらす大きな存在となっており、終わりの日には神の国となって完成されます。

④ あなたは霊と肉のパンを受けて生きるのだ! (マタイ4:4/申命記8:3の引用)
霊と肉のパンで私たちを養ってくださる「この方」イエスの強固な御意思は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」との言葉と、5000人給食の奇跡(マタイ14:21、マルコ6:44、ルカ9:14、ヨハネ6:10)の御業に現れています。

続けて14節に進みます。

4.「私たちはこの方の栄光を見た」

 _†_ヨハネ1:14 _†_
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15節は省略
「私たちは(私たちの間に住まわれた)この方の栄光を見た」とあります。何を見たのでしょう。

十字架上の贖いです。 ヤコブ2:14-17には、私たちの信仰についてこう記されています。

 _†_ヤコブ2:14-17 _†_
2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
2:17 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

この御言葉には、私たちの心にストレートに突き刺さってくるものがありますが、イエスが私たちに命じられることは全てイエスご自身がされたことです。16節には、「必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう」とありますが、イエスにとってはどう言うことだったのでしょう。

イエスはちゃんとご存じでした。「私たちの救いに必要な物、十字架の贖いを与えなければ、モーセの十戒もご自分の地上の生涯も、私たちの永遠のいのちには何の役にも立たない」ということを。まず、神と私たちとの間の障害物、罪を取り除かなくてはならない、だからイエスは身を挺してゴルゴダの十字架に向かわれたのです。もし十字架がなかったら、イエスの地上のご生涯を賭けた福音宣教も、それだけでは死んだものだったのです。

イエスは一粒の麦の譬えをお話し下さいました。

 _†_ヨハネ12:24-25 _†_
12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

イエスはこの譬えの通り、天から下り十字架上で死んでよみがえられたことで、

 _†_ヨハネ1:16-17 _†_
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

「モーセによって与えられ」た律法の目的は達成され、十字架とよみがえりにより救いの恵みとまこととはイエス・キリストによって完全に実現したのです。

 _†_ヨハネ1:18 _†_
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

この18節の「神を説き明かされた」(新改訳2017聖書)は、言葉で説明するニュアンスが強い訳です。ですので、ここは口語訳聖書の「神をあらわした」の訳の方が適切かと思いますが、いずれにしろ、世界最初のクリスマスにおいて神は「一粒の種のプレゼント」によりご自身を現して、私たちの救いと永遠の養いを実現してくださったのです。

結び 「一粒の種の贈り物が届いてます」

クリスマスは一年のうちでもっとも多くの人々が、何を食べようか、何を贈ろうか、どう楽しもうか、とあれこれ思案する季節です。

この礼拝の冒頭で朗読された招詞にこうありました。

 _†_ イザヤ55:1-3 _†_
55:1 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。
55:2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。
55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。

こう呼ばわるお方が、このクリスマスも「贈り物」を携えて私たちひとりひとりのもとに来られてます。

 _†_ 黙示録3:20 _†_
黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

さあ、このクリスマス、そして続く新しい年も、永遠に変わることのないイエスにより恵みの上にさらに恵みを与られ、豊かに養われてまいりましょう。

添付ファイル (パスワード不要)

本記事にパスワード不要の添付ファイルはありません

添付ファイル (要パスワード)

本記事に要パスワードの添付ファイルはありません

2025年 メッセージ一覧

2025年12月21日 クリスマス記念主日礼拝説教「一粒の種の贈り物」

クリスマスの出来事は、三つの福音書にそれぞれの視点で具体的に記されていますが、ヨハネによる福音書は具体的な出来事抜きにクリスマスの根源的意味合いを記しています。今日はこのことを聖書全体を俯瞰しながらお話致します。

2025年9月21日 主日礼拝説教「七回を七十倍するまで ~神の慈しみはとこしえに」

聖書で約束された資産とは、「天の御国」です。この「天の御国」は想像や哲学的産物ではなく、旧約聖書の冒頭から“約束の地”として啓示されて来た、私たちの究極的望みです。主なる神様は、罪深い私たちを「七回を七十倍するまで」、すなわち限りなく忍耐し憐れみ、私たちに「天の御国」を受け継がせて下さることをお話しします。

私が捜し救い出す

イエス様は、色んな称号で呼ばれています。 すぐに思い出せるものだけでも、 信仰の創始者/完成者、命のパン、平和の君、神の子、人の子、ダビデの子、インマヌエル、花婿、大祭司 …などがあります。今日は、「良…