2025年9月21日 主日礼拝説教「七回を七十倍するまで ~神の慈しみはとこしえに」
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
日本聖書協会『口語訳聖書』ペテロの第一の手紙 1章3-9節
■ まえおき
† Ⅰペテロ1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
ここで約束された資産とは、「天の御国」です。この「天の御国」は想像や哲学的産物ではなく、旧約聖書の冒頭から“約束の地”として啓示されて来た、私たちの究極的望みです。
今日の説教題は、「七回を七十倍するまで ~神の慈しみはとこしえに」としましたが、
主なる神様は、罪深い私たちを「七回を七十倍するまで」、すなわち限りなく忍耐し憐れみ、私たちに「天の御国」を受け継がせて下さることをお話しします。
そこで、第一部で、旧約聖書に記された「約束の地」を巡る戦いの歴史をかいつまんでお話しします。
次いで第二部、その戦いに見る主の御業をお話しし、最後に「まことの約束の地、天の御国」を受け継ぐことの確信と喜びを皆さまとご一緒に分かち合いたいと願っています。
■ 第一部 旧約聖書の「約束の地」を巡る戦いの歴史
今も、パレスチナを巡り、ユダヤ人とアラブ人との間で長年にわたり対立と戦争が続いています。
旧約聖書が記す「約束の地」とは、神がアブラハムとその霊的子孫(神の民)に与えると約束された土地で、現在のパレスチナを指していました。ところが旧約の時代がイエス・キリストに向かって進むにつれ、「約束の地」とは「天の御国」の雛形・予型であることを、主は徐々に啓示してこられました。そして新約聖書、
_†_ ヘブル11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
ここで、「約束のもの」とは地上ではなく天にあるのだと明らかにされました。
(1) 最初の具体的な「約束の地」についての啓示 (BC1500頃?)
話は、出エジプト記から始まります。主がご自分の民をエジプトでの奴隷状態から救い出す為に、主はモーセに現れてこう言われました。
_†_ 出エジプト3:7-8 _†_
3:7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
(2) 「約束の地」への道中 (BC1410頃?) ~早速敵が挑みかかってきた
主がファラオを数々の御業で屈服させた後、神の民イスラエルは、モーセに率いられてエジプトを脱出(BC1450頃?)し、幾多の試煉を経ながら外敵との戦いにも勝利し、荒野を「約束の地」へと進みました。
この時、剣による戦いでは勝ち目が無いことを悟った敵は、神の民を背信行為へと誘惑し、彼らが自分たちの神に裁かれて滅びるように、と一計を案じました。その手段が、カナン土着の豊穣神バアルによる誘惑です。
これから後、バビロン捕囚に至る約900年間、偶像バアルとの戦いの歴史が続いたのですが、これを中東に於ける古代人の迷信だとか侮らないで下さい。詳しい説明は省きますが、偶像バアルはサタンの活動の一側面です。主イエスの十字架と復活によりサタンの滅びは既に決しましたが、終わりの時までは人を誘惑すること許された霊的存在ですから、私たちは旧約聖書の記事を軽視できません。
では、本筋に戻ります。
_†_ 民数記25:1-9 _†_
25:1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。
25:2 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、【主】の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。
25:9 この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。
バアル・ペオルとは、ペオル山を本拠地とする偶像バアルのことで、この悲惨な出来事は、神の民イスラエルの記憶に深く刻み込まれ代々語り継がれたようです。その出来事から900年ほど後にバビロン捕囚から帰還した(最初の帰還はBC538)民を励ます詩106篇の中でも歌われている程です。
_†_ 詩篇106:28-31 _†_
106:28 彼らはまたバアル・ペオルとくびきをともにし死者へのいけにえを食べた。
106:29 こうして自らの行いによって御怒りを引き起こし彼らに主の罰が下った。
106:30 そのときピネハスが立ち仲立ちをしたので主の罰は終わった。
106:31 このことは代々にわたり永遠に彼の義と認められた。
(3) 「約束の地」を目前にして (BC1400頃?) ~「この民は...わたしがこの民と結んだわたしの契約を破る。」
さて、先ほどの民数記25章の出来事から10年ほど後のことでしょうか、ヨルダン川を渡り約束の地に入ろうとした矢先に主はモーセにこう命じられました。
_†_ 申命記31:16-21 _†_
31:16 【主】はモーセに言われた。「見よ、あなたは間もなく先祖とともに眠りにつこうとしている。この民は入って行こうとしている地の異国の神々を慕い、自分たちのうちで淫行を行い、わたしを捨てて、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破る。
31:17 その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが焼き尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに私たちの神がおられないからではないか』と言う。
31:18 わたしはその日、彼らが行ったすべての悪のゆえに必ずわたしの顔を隠す。 彼らがほかの神々の方に向かったからである。
31:19 今、次の歌を書き記し、それをイスラエルの子らに教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエルの子らに対するわたしの証しとするためである。
31:20 わたしが彼らを、彼らの父祖たちに誓った乳と蜜の流れる土地に導き入れるとき、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々の方に向かってこれに仕え、わたしを侮ってわたしの契約を破る。
31:21 多くのわざわいと苦難が降りかかるとき、この歌が彼らに対して証しをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今しようとしている計画を、わたしはよく知っているからである。」
この後、荒野の道中を率いたモーセは死んで葬られ(申命記31章)、モーセの後継者ヨシュアが神の民を統率してカナン征服を果たしました。
(4)士師記の時代 (BC1350頃~BC1100頃)
そのヨシュアも、死の直前に申命記31章と同様の警告(ヨシュア記24章)を民に与えましたが、主に信頼し戦い抜いて勝利した苦労を知らず、主の栄光を目にしたこともない世代になると、モーセとヨシュアと通して語られた御言葉が現実となったのです。
①彼らはカナン人と妥協し、偶像礼拝・不道徳に陥る
②神の裁きが異邦の民による圧迫として下される
③彼らは神にあわれみを求めて叫ぶ
④士師と呼ばれる指導者が起され助けられるが、士師が死ぬとたちまち民は背信に逆戻り。
まさに「『犬は自分が吐いた物に戻る』、『豚は身を洗って、また泥の中を転がる』という、ことわざどおりのこと」(Ⅱペテロ2:22)が250年近く続いたことが士師記に記されています。
(5)北王国でのバアルとの戦い (BC930頃~BC740頃)
その士師記の時代から50年ほどすると、サウル王(BC1050頃?)、ダビデ王、ソロモン王による統一王国が誕生しましたが、100年ほどで国が南北に分裂(BC931)すると、北王国ではたちまちバアル礼拝が国を席巻してしまったのです。その時、神に召された預言者エリヤが、バアル預言者の大集団と民に対してカルメル山上で挑んだのです。
_†_ 列王記上18章 _†_
18:21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし【主】が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
...
18:37 私(※エリヤ)に答えてください。【主】よ、私に答えてください。そうすればこの民は、【主】よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」
18:38 すると、【主】の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。
18:39 民はみな、これを見てひれ伏し、「【主】こそ神です。【主】こそ神です」と言った。
18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。
この陰惨な出来事にも拘わらず、僅か数十年後には再び偶像バアルが蔓延してしまいますが、今度は北王国10代目の王エフー(BC840-815の間)により再度根絶やしにされました。
_†_ 列王記下10:27-28 _†_
10:27 バアルの石の柱を打ち壊し、バアルの神殿も打ち壊し、これを便所とした。それは今日まで残っている。
10:28 このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。
この様に、偶像バアルは繰り返し根絶やしにされたにも関わらず、“舌の根の乾かぬうち”に民はバアル礼拝に傾倒して行ったのです。
(6)北王国への預言者ホセアを通しての最終宣告 (BC740頃)
しかし、神はいつまでも侮られ手をこまねいてはいなかった。
_†_ ホセア2:17 _†_
2:17 わたしがもろもろのバアルの名を彼女(※イスラエルの民)の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。
最終宣告を下された北王国はBC722 、アッシリヤにより滅びました。
(7)南王国の状況 (BC600頃)
さて、北王国の滅亡が神の裁きだと知っていたはずの南王国ではどうだったでしょう。
_†_ エレミヤ2:21-22 _†_
2:21 わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。
2:22 たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。──【神】である主のことば──
偶像バアルの誘惑は心の奥深くまで浸潤していて人の手には負えないと言うことです。皆さまご自身で是非エレミヤ書5章をご一読下さい。
それでも主は民を招いて言われました。
_†_ イザヤ1:18 _†_
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
しかし、イザヤから100年ほどの後、この「頑なで悪と罪にとどまり続けた」(申命記9:13, 9:27、エレミヤ 5:23 ) 南王国の民に、主は預言者ゼパニアを通してこう宣告されました。
_†_ ゼパニア1:4 _†_
1:4 わたしは手をユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。その場所からバアルの残りを、偶像の祭司たちの名を、その祭司らとともに断つ。
そしてBC586年、エルサレム神殿は崩壊しバビロン捕囚により南王国も滅びました。
しかし、このバビロン捕囚以後、バアルそのものとの戦いが全く聖書に記されなくなりました。
(8)聖書の不思議
この様に、主が「乳と蜜の流れる地」と言われた「約束の地」カナンは、神の民を主なる神から引き離そうとする誘惑に満ちていた。そして神の民イスラエルは、その地で凡そ千年の長きに亘って背神行為を繰り返し、挙げ句の果てに、バビロン捕囚という悲惨な結果を迎えたことは聖書の謎とも言えましょう。
■ 第二部 「約束の地」を巡る戦いに見る主の御業
ローマ11章にその謎を解く手掛かりがあります。
(2) 「残りの者」が備えられた
_†_ ローマ11:2-5 _†_
11:2 神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」 (※列王記上19:14)
11:4 しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」 (※列王記上19:18)
11:5 ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。
パウロは、バアル預言者たちと壮絶に戦った(列王記上18章)預言者エリヤを励ました主の言葉(列王記上19章)を引用して、偶像バアルとの戦いの歴史とバビロン捕囚について説き明しています。
神は、背信行為を繰り返したご自身の民イスラエルを見限って裁いただけではなく、まことのご自分の民〈残された者たち〉を恵の選びによって残すためであった、と。
この〈残された者たち〉は、パウロ独自の新しい概念ではありません。偶像バアルとの戦いの歴史の中で預言者たちを通して啓示されていました。
_†_ イザヤ10:21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
_†_ イザヤ11:11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。...
_†_ ゼカリヤ8:12 それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木が実を結び、地が産物を出し、天が露を滴らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを受け継がせる。
_†_ ゼパニヤ3:13 イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを言わない。その口の中に欺きの舌は見つからない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はいない。」
〈残された者たち〉とは、いわば坩堝(るつぼ)で金が精錬される如く、「約束の地」カナンでの偶像バアルとの戦いにより神信頼と御言葉への聴従の訓練を受け、神の憐れみにより生き残った信仰者です。
マタイ1:5-12にはイエス・キリストの系図が書かれてますが、これは偶像礼拝が蔓延した時代とバビロン捕囚の時代においてすら、神の恵みによって〈残された者たち〉がいたことの証言です。
その系図には、ルツと夫ボアズの名があります。彼らも、偶像礼拝が蔓延した士師記と同じ時代を信仰に立って生き、エッサイからダビデ、そして主イエスへと命を繋いだ〈残された者たち〉です。
神は「七回を七十倍するまで」の忍耐と慈しみをもって彼らを備え、神の御業、救いのご計画を着実に進めておられたのです。
そして、神のひとり子イエス・キリストをダビデの子孫としてこの世に遣わし、救いの御業を成し遂げ、今や「まことの約束の地」を私たちキリスト者の現実にして下さいました。
■ 結び
主イエスが十字架と復活により死と罪の支配を打ち破りサタンに勝利して昇って行かれたところ、そこが私たちの為に備えられた「まことの約束の地」、「天の御国」です。
この世にあって私たちには、天に召される日まで誘惑や困難との戦いが続きますが、信仰の戦いによりそれを勝ち取ることが主の御心です。
主は、御言葉を通して聖霊により常に私達と共にいて助け励まして下さっています。
_†_ イザヤ55:10-11 _†_
55:10 雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。
しかも御言葉、すなわち神の武具(エペソ6:11)を私たちに纏わせて下さっています。
その上さらに「神の慈しみは七回を七十倍するまでに、とこしえ」です。
このようにして主は、私たちが「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。」(Ⅰペテロ1:4)
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