教会暦ではこの日から受難週に入ります。四つの福音書は、それぞれの視点からイエスの十字架を記しています。今日の聖書箇所は、人々がこの出来事をどの様に見て十字架上のイエスに何を思ったのかが記されています。
今日は黒人霊歌の名曲“Were you there?”(讃美歌第二編177番「あなたも見ていたのか」)
https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/sa2-177.html
を取り上げながら、私たちは、あなたは、今日の聖書箇所から何を見るのか問うてみたいのです。
1.「イエスの十字架」に臨場した “時の人たち”
(1)兵士たち
まず、イエスを役得の対象としてしか見られなかった兵士たちがいました。
マルコ15:24 それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。
(2)総督ピラト
イエスを、自分の政治的生命を守るための政治的道具としてしか見られなかった支配者もいました。
15:25-26 イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。/イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。
さらに聖書は淡々と事実を記します。
15:27-28 また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。/〔こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕
政治的権力者は宗教的権威者たちの思惑を気にしてか、イエスの両側に強盗を配置することで、イエスを犯罪人として処刑するお膳立てを整えました。しかしこの時、イザヤ書53章で預言された「神の救いの御業の頂点」が成就するために自分たちが行動したことに誰一人として気付かなかったのです。
(3)そこを通りかかった人々
「通りかかった者たち」、すなわち事の成行きを知らず、十字架のイエスに無力さと挫折を見ることしかできなかった人々です。
15:29-30 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、/十字架からおりてきて自分を救え」。
現代に至る数多くのイエスを拒む人々の悲しい現実と重なります。
(4)祭司長、律法学者たち
宗教的権威者たちは、聖書を知っていると自負しながらも、神を嘲ることで霊的無知蒙昧を自ら暴露したのです。
15:31-32 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。/イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
(5)好奇心だけの人々
好奇心だけで眺めていた“野次馬”の姿が記されています。
15:33-36 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。/そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。/すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。/ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。
(6)聞く耳のある人、見る目のある人
この様な喧噪にあって、イエスの言葉を聞き分け、真実を見る目を持った人もいました。
15:39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
処刑を監督していた百人隊長は、十字架の正面に立ち一部始終を見聞きし、最後に「まことに、この人は神の子であった」と告白しました。この百人隊長は、これ迄見慣れた処刑とは全く異なる尊厳をイエスに感じ、〈神の子〉を見出したのでしょう。
(7)イエスに仕えた女性たち
15:40-41 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。/彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
彼女たちの言葉や心境は記されていませんが、マグダラのマリヤは、「七つの悪霊を追い出してもらった」(ルカ8:2)女性です。小ヤコブとヨセとの母マリヤは、いくつかの異なる呼び方で新約聖書に登場しています。彼女たちはイエスに従い経済的・日常的にイエスを助けた女性たちでした。
この時はどれ程の悲嘆に暮れたことでしょう。しかし、彼女たちはイエスの復活に際してはイエスと出逢い、後々も十字架の証人となりました。
2.後代の人々
時は異なれど、福音に聞く人は誰でも十字架の出来事に臨場出来ます。
(1)パウロとガラテヤ教会のある人々
十字架の出来事から間も無く使徒の一人とされたパウロも、十字架の出来事をはっきりと見ました。
Ⅰコリント1:17-18 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。/十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
パウロはイエス・キリストを十字架につけられた方として描き、福音を宣べ伝えました。しかし、ガラテヤ諸教会のある人々は、パウロからこう諫められなければなりませんでした。
ガラテヤ3:1 ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。
十字架の出来事を見ても信仰に留まるには、御言葉の剣をもって誘惑や試錬に勝利していかねばなりません。
(2)この情景を歌った人々 ~「スターバトマーテル」(悲しみの聖母)
十字架の出来事を歌った名曲は数えきれません。先ほど歌った讃美歌「あなたも見ていたのか」はその一つですが、この曲について詳しくお話しする前に、圧倒的な感動で私に迫って来た作品をひとつご紹介したいのです。
その作品を私が初めて耳にしたのは、半世紀近く前の学生時代です。FM放送から流れた来た、ケンブリッジ・キングスカレッジ聖歌隊が歌うパレストリーナの「スターバトマーテル」に私は衝撃を受け、まじろぎもせず聞き入りました。
「スターバトマーテル」(悲しみの聖母)は、ヨハネ福音書19:26-27に記された、十字架のそばに弟子のヨハネと一緒にたたずみ、わが子イエス・キリストの磔刑に深く悲しむイエスの母マリアを歌うカトリック教会の聖歌です。詩(歌詞)は13世紀イタリアの宗教詩人のもので、何百人もの作曲家がこの詩に曲を付けましたが、パレストリーナの作品が白眉です
しかし私が聖書に親しむにつれ、ある意味官能的とも言える程の神秘的世界に、聖書的信仰と異なった違和感の様なものを抱くようになりました。
(3)この情景を歌った人々 ~黒人奴隷たち
この説教前に歌った讃美歌第二編177番「あなたも見ていたのか」は、アメリカの過酷な奴隷制度の中で生まれ歌い継がれた「魂のうた」黒人霊歌のひとつです。驚くべきことにこの曲は自分たちの罪を告発するのです。「どうしてだ?!彼らの自由を奪った奴隷商人や白人たちこそ罪人として訴え歌われるべきではないのか!?」と問いたくなります。
奴隷解放の前も後も、多くの「白人に反抗的な」仲間が捕らえられ、リンチを受け木に吊るされました。それを助けたくても助けられない…不甲斐なく情けない弱い自分の姿…。心ならずも大切な人を見捨ててしまった痛恨の思い。その様な自分を、聖書のイエスの十字架を取り巻く人の姿に重ね、同時に十字架上のイエスに自分自身の罪を見たのです。
黒人奴隷たちは、自分たちを取り巻く現実に目も心を奪われず、福音を通して彼らの目の前に描き出されたイエスを見たのです。
「この私の罪を赦すために、主は身代わりに十字架にかかって下さった」と黒人たちは歌いました。
自分たちを理解し罪を赦し慰めてくださるイエスへの感謝と喜び、イエスが約束する自由の望みを仰ぎ見て、震えながら「Were you there?」と歌ったのです。
3.現代の私たちへの問いかけ
今日は、イエスが十字架に掛かられた出来事を、人々は様々な目で見ていたこと歌ったことをお話ししました。
主イエスは今も私たちに問いかけられます。「あなたは十字架の出来事をどう見ていたのか。あなたは十字架上の私イエスに何を見たのか」と。
