私が捜し救い出す
15:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
日本聖書協会『口語訳聖書』ルカによる福音書 15章1-7節
イエス様は、色んな称号で呼ばれています。 すぐに思い出せるものだけでも、
信仰の創始者/完成者、命のパン、平和の君、神の子、人の子、ダビデの子、インマヌエル、花婿、大祭司 …
などがあります。
今日は、「良い羊飼い」と「神の子羊」、この二つを取り上げ、聖書全体を貫く壮大な救いの御業の進展を聖書に見てまいりましょう。
1.旧約聖書の時代
神の民イスラエルにとって、羊は古代から身近な存在で親しまれた動物で、創世記4章には、アダムとエバの次男アベルが飼っていた羊の初子を主に捧げたと書かれています。
また羊は、アブラハムや彼の子孫たちの財産の一つで、持ち主の子供たち(創世記29章9節など)や雇い人(創世記31章6節)が羊を飼っていました。
また聖書はしばしば、「神と人間の関係」を「羊飼いと羊」にたとえていますが、その最初の箇所は、
_†_ ① 創世記48:15 _†_
48:15 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。
この祈りは、アブラハムの孫ヤコブが、エジプトのファラオに重用されていたヨセフを祝福した言葉で、紀元前2000年頃のことです。
そのヤコブも、彼の妻ラケルも羊飼いでした(創世記 29:9)。
このように、旧約聖書巻頭の創世記の時代から、「羊飼い」という言葉には「自分たちの世話をして牧してくださる神」との厳粛な意味合いがあったことがわかります。
次に、羊に関する具体的な記述は、かつては羊飼いだったモーセに率いられて、神の民が奴隷の地エジプトから約束の地に向けて脱出する前夜の「過越の晩餐」に関する規定の中で登場します。その規定には、神の民イスラエルを奴隷の地から救い出す為に犠牲となって死ぬ羊は「傷がないこと」(出エ12:5)、「骨を折ってはならない」(出エ12:46)とあります。
この「傷がないこと」「骨を折ってはならない」と言う紀元前1500年頃の規定は、十字架上でほふられたイエスこそ神が備えられた「過越の犠牲の子羊」であることを図らずも証したのです(ヨハネ19:31-36、Ⅰコリント5:7)。
このエジプト脱出前夜の「過越の晩餐」は、主の十字架上前夜の「最後の晩餐」を経て、今日の聖餐式、すなわち、「私たちも罪と死が支配するこの世から救い出される“新しい出エジプト”を記念した礼典に引き継がれています。
さて、この「過越の晩餐」からさらに500年程下ると、少年時代は羊飼いであったダビデ(サムエル上16:11)、により「【主】は私の羊飼い」の書き出しで始まる詩篇23篇が記されます。
_†_ ② 詩篇23編 _†_
23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。
この詩篇23編の背景には、
・ウリヤの妻バテシバとの姦淫という不義にさ迷い出て滅びに突き進んでいて自分に、神は預言者ナタンを遣わして追い迫り、悔い改めさせ、滅びから救い出して下さったこと(サムエル下12章)
・凶暴な野獣の如きアブサロム(ダビデ王の三男)の謀反から救い出されたこと(サムエル下17:27-29)
など自分の人生を振り返り、まさに滅び行かんとした自分を羊にたとえて、弱き人間を救い出しいのちを得させる「良き羊飼い」なる神を誉め讃えています。
しかしダビデの死後、国には“悪しき羊飼い”が次々登場し、為政者や国民の不信仰・罪ゆえに国は分裂衰退の一途を辿り始めます。この間神は多くの預言者を遣わし、悔い改めと厳しい裁きを警告されました。しかし人々は聞き従わず悔い改めず、遂に裁きとしてのバビロン捕囚と国家の滅亡を経験しました。
エゼキエル書34章(エレミヤ書23章)等にこう書かれています。
_†_ ④ エゼキエル34:1-31からの抜粋 _†_
34:7 それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。
34:8 わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。
…
34:10 【神】である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」
34:11 まことに、【神】である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。
…
神は明言されたのです。
・神の民(羊)を養うべく神から委託されながらも、逆に神の民を搾取し自らを肥やした指導者たち、すなわち悪しき牧者たちを裁く。
・彼らへの委託を取り消し、神ご自身でご自分の民を救い出す。
しかし同時に神は、
・ご自身でご自分の民を救うこと
・究極的な救いの完成を目指す神の救いのご計画
を啓示されました。
_†_ ④ エゼキエル34:1-31からの抜粋 _†_
34:23 わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。
34:24 【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは【主】である。わたしが語る。
ここでは、 「わたしのしもべダビデ」について力強く繰り返されています。
旧約時代の民は、ここで預言された「一人の牧者」をローマと戦い地上にダビデの王国を再興するメシヤと理解しました。
しかしイザヤはその「彼」をこう指し示したのです。
_†_ ③ イザヤ53章からの抜粋 _†_
53:2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。…
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。…
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
神ご自身が備える「わたしのしもべダビデ」とは、勇猛果敢に戦い王国を建設したあのダビデではなく、十字架上で屠られた「神の子羊」が啓示されているのです。
ほとんどのクリスチャンの方がご存じの有名な聖句お読みします。
_†_ ⑤ イザヤ55:8-11 _†_
55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。
神は、決して約束を違えず、天から降り注ぐ雨と雪のように、御言葉の使命を果たすとあります。
神の御言葉が天に留まったままならば、それらの恵みも人間には遠過ぎて手が届きません。しかし御言葉は大空から降り注ぐ雨と雪のように降り注がれます。御言葉が降り注ぐと同時に神が近づいてきて、人はその憐れみと恵みを受けるのです。
第2章 新約聖書
2.1 キリストの謙卑 ~神の子羊としてのご生涯
ヨハネによる福音書の冒頭、旧約預言の成就が高らかに宣言されています。
_†_ ⑥ ヨハネ1:14 _†_
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
「言葉は人となった」、この事を私たちは使徒信条で「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と告白しています。
バプテスマのヨハネは、主イエスと出会ってこう証言しました。
_†_ ⑦ ヨハネ1:29-30 _†_
1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
ヨハネは、上等な服を着たサドカイ人も、道徳の服をまとったパリサイ人も、ただの罪人に過ぎないことを見抜いていました。しかし、大工の仕事着を身につけたようなイエスの身なりにも欺かれませんでした。それにもかかわらず主イエスは逆に、わたしにバプテスマを授けなさいと言われました(マタイ3:13-17)。ここにご自分を罪人たちと一つになさったイエスの謙卑(けんぴ)の真骨頂を見ることが出来ます。
※バプテスマは罪びとだけが受けるべきものです。
そのイエス様の御生涯について、こう書かれています。
_†_ ⑧ マタイ9:35-36 _†_
9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
ここで「深くあわれむ」(9:36)と訳されたギリシャ語は、「内臓が揺り動かされる」程の深い同情を寄せるという意味ですが、この言葉は、約束の地に向かう途上のモーセの祈り、
_†_ ⑨ 民数記27:15-17 _†_
27:15 モーセは【主】に言った。
27:16 「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、【主】よ。一人の人を会衆の上に定め、
27:17 彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。【主】の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」
この祈りを聞かれた主の心中をこの上なく現すのが、この「深くあわれむ」という言葉です。
この主イエスの眼差しと御思いが、今も私たちに注がれています。
そのイエス様は、こう宣言されました。
_†_ ⑩ ヨハネ10:11-18 _†_
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
…
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
また、あの有名な「1匹の羊を背負って連れ返るたとえ話」では、
_†_ ⑪ ルカ15:1-7 _†_
15:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
ここでイエス様はこう言われたんですね。
「あなたがたは、なぜわたしがこうしているのか判らないのか。わたしがこうしているのは、ダビデの詩篇で暗示され、預言者たちを通して明言された大いなる約束を、神がわたしイエスにおいて実行されているからだ。
あの預言者たちをとおして、
・神は人間の姿で地上にやって来て、失われた羊たちを探し出して集めるとみずから誓約された。
・神はまた、羊の群れを、彼らを滅ぼす悪しき羊飼いたちから救い出すと誓約されたではないか。
ここで預言されたのは他ならぬわたしである。だからこそわたしは見てのとおりのことを実行しているのだ。」
丁度今は受難節、私たちが使徒信条で告白する「ポンテオピラトの下で苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」たことで、「良き羊飼いは羊のために命を捨てます」との御言葉が成就したのです。
しかし、これは終わりではなく、「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩」く(ルカ15:4)こと、善き羊飼いとしての御業がここから始まったのです。
私たちは使徒信条で「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白している通り、[キリストの高挙]によって人間には不可能な「善き羊飼い」としてのお働きが可能になったのです。
2.2 キリストの高挙 ~善き羊飼いとしての御業
キリストの高挙については、ウェストミンスター小教理問28にあります。
・三日目に死人の中から復活し、朽ちることのない栄光の体を得たこと
・弟子たちの前で天に昇ったこと
・父なる神の右に座り、神と共に全世界を治める王として君臨していること
・終わりの日に世を裁くために再び来られ審判を経て、神の国が完成されること
使徒信条では、続けて私たちは「我は聖霊を信ず」と告白しますが、この聖霊の働きによって、地理的時間的な制約を受けることなく羊飼いの働きが世界中で為されるようになったわけです。
イエス様の謙卑と高挙の御生涯によって、旧約聖書の巻頭創世記に始まり、旧約預言者により啓示された壮大な救いの御業は、今も力強く完成に向かっています。
結び
私たちの信仰とは、聖書に書かれた神の約束、すなわち啓示を事実として受け入れることと言っても良いでしょう。私たちの信仰の拠り所、
_†_ ⑫ Ⅰヨハネ4:9-10 _†_
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
このことです。義であり愛なる神様の働きがこの私に及んでいるからこそ、私たちはこの礼拝、そして主にある交わりに与っています。
とは言え、夢に現実性が乏しいように、神の啓示も我々に対する現実性が乏しいです。その乏しさにもかかわらず、それにまともに生きていくところに信仰者の歩みがあります。ヨセフはあの夢見るものと蔑まれ憎まれました(創世記37章)。今日においても、これに耐えることなしに、御言葉に生きることは困難です。
もし預言(啓示)が、それも突飛とも思える聖書の言葉が、ただ一度ポンと言われただけなら、それを信じるのは確かに難しいです。しかし幸いなことに私たちは、旧約預言者たちを通して与えられた啓示の一つ一つが調和と一貫性を保ちながら次第に具体的になり、主イエスに於いて成就したことを福音書に見させていただいてます。しかも完成した有様を黙7:14‐17等で啓示していただいてます。
_†_ ⑬ 黙示録7:13-14 _†_
7:13 すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
現代社会は、バビロン捕囚当時の如く、罪と不信仰が世の中を跋扈しています。さまざまな価値観や情報、政治的イデオロギーや権力が跋扈し竜巻の如く吹き荒れ、私たちは翻弄されています。しかし、これこそ御言葉の真実さの証拠です。これに気づく時、私たちは信仰の確かさを確信出来、大きな喜びに満たされ、希望にあふれます。
主イエスは「私はすぐに来る」 (黙示録 22:20) と言われましたが、私は時々思うことがあります。「主よ、もう2000年以上経ちましたよ」と。しかしその都度、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(Ⅱペテロ3:8)と諭されています。神様の時間は私たちの時間感覚とは異なるんですね。
しかも、主イエスは仰りました、「(あなたを)見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め…」(ルカ15:5-6 )と。私たちの忍耐は、イエス様に背負われて御国に辿り着く迄のしばらくの間です。しかもそこでは、世々の信仰者たち、私たちの友、そして御国の祝宴、「過越」の完成を祝う祝宴が私たちを待っている! このことを思うと、「アッバ、父よ」と讃美せずにはおられません。
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